大和鉄道

中街道道標

    原本の歴史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会
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和鉄道

 大和鉄道・旧機関区建物 棟瓦 〈急急如律令〉
 
 急急如律令〉 中国・漢代の文書の命令書等文書の最後に「急急如律令」と記し、急ぎ、「律・令・命令」を実施する様と云う意味であるが、日本では、棟瓦にこれを記し、民に秩序を守るように戒めとした。
 田原本では江戸時代から明治にかけての建物の棟瓦に散見される。 大正7年建築の大和鉄道・旧機関区建物にも使われていた。
路線図
大和鉄道沿線略図
2号機関車
2号機関車
3号機関車
3号機関車
1001号機関車
1001号機関車
寺側橋梁上
寺川橋梁上
開業式 田原本駅
開業式 田原本駅
田原本駅
田原本駅
県道(旧田原本線
県道(旧田原本線)
機関区
機関区
電化
電化
田原本駅
田原本駅
電化後
電化後
磯城高校
磯城農学校
磯城野高校
機関区の瓦
 機関区の瓦
                        信貴生駒電鉄社史 昭和39年12月10日発行より

田原本陣屋町 中道 道標 
                                             
旧田原本町・道標説明写真       平成221025       中西秀和


 田原本陣屋町・中街道の道標は、南の南町道標から北の新町道標迄の間に4基の江戸時代の道標があるが、他に、魚町道標も中街道にあったと云われ、又、味間町と魚町の交差点南西角の味間町510番地にも、平成15年11月の建替え前まで道標があって、南の南町道標から北の新町道標迄の間、約600mの間に6基の道標があり、中街道の他の高取、見瀬、八木、二階堂の街に比べて道標が多い。 この事は、田原本陣屋町の南の入口「新地」から北入口「新町」 の間を中街道が通した為、田原本陣屋町の防御上、10ヶ所の曲り角の地割をした為、曲り角3ヶ所と2ヶ所主要な辻に道標が建てられた事と、当時の田原本 陣屋町の裕福な商人の寄進により道標が建てられた。
 6基の道標の内、4基は当時盛んだった「山上さん参り」の道標で、この事は、新町・竹村家の入口に取り付けられた多くの、「山上さん参り」の参詣札によっても窺い知れる。 そして、大門西道標の「西国三十三ヶ所」巡礼の為の道標、魚町道標の「龍田 法隆寺 大坂・三輪 長谷寺 い勢」方面表示の道標。 
これら江戸時代の道標に対し、 大正時代(大正11年・1922)になって、県下市町村間の距離測定の基準となる道路元標が奈良県によって建てられ、 田原本町内で「旧田原本町」「旧都村」、「旧多村」、「旧平野村」、「旧川東村」に建てられたが、現在、「旧田原本町」、「旧都村」、「旧多村」の3基が残っている。
 6基の道標の内、紀年銘のある内、古い順に、
 ① 天保四年・1833 の南町道標 
 ② 天保十年・1839 味間町道標 
 ③ 天保十三年・1842 魚町道標 
 ④ 元治元年・1864 ④ 元治元年・1864新町道標の表示は、北は京・奈良・郡山、南は、大峰山・新町道標の順で、大門西道標と堺町道標は紀年銘が 無いが、江戸時代・天保年間以降と思われる。 
吉野・高野と三輪・初瀬・伊勢、西は、龍田・法隆寺・大坂と大坂・堺・高田。 道標の大きさは、1尺角に 高さ6尺型の堺町道標・南町道標・新町道標の3基、8寸角に高さ5尺型の味間町道標、その中間型の魚町道標、5寸角に高さ3尺型の大門西道標がある。
 表示で特異なのが「堺町道標」の「非心施一人切應如大海」と布施の徳を表した道標。 
それに、魚町道標の「おおさか」を「大阪」と表記していて、江戸時代 「おおさか」は「大坂」と表記。
 明治時代になって「大阪」とするのが一般的であるが、「魚町道標」のように、天保十三年・1842に「大阪」と表記しているのは珍しい。
 紀年銘のある道標の建立季節は、全て、春三月で共通し、建立季節のない道標の建立季節は不明だか、江戸時代、建立季節を「春三月」限定する慣習があったのか。 石工については、 
① 天保四年・1833 南町道標の「王寺村 又右衛門」 
② 天保十年・1839 味間町道標「當所 佐兵衛」とあり、他に、田原本陣屋町内の 石造物で 寛政五年(1793)の津島神社・大燈籠は「大坂 四ツ橋 御影屋小兵衛 同新六と、同 津島神社・石造物に「王寺村」の石工の名がある。

        
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