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金春札 文禄4年(1595) 金春安照は、秀吉 より、大和中ノ河村坊城村に500石の知行地を拝領した。のち、徳川幕府より坂原村を知行地として拝領す。上の金春札はその知行地で流通した「米手形・銀壱文」の兌換紙幣です。 |
項目に |
2019年 フォーラム 第6回 田原本の能 |
2018年 フォーラム 第5回 田原本の能 |
平成29年 |
平成27年フォーラム 田原本の能 |
田原本の歴史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会 |
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田原本の能 |
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2020年 フォーラム 第7回 田原本の能 コロナ禍の影響により、中止となりました。 |
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2018年 フォーラム |
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日 時: 平成30年8月25日 午前 9時 開演 於: 田原本町・青垣生涯学習センター・弥生の里ホール |
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プログラム 9:00 開 演 挨拶 田原本町長 森 章浩 たすきの会・会長 中西秀和 9:10 プログラム 1 講話 能と狂言 「五番立て能について」 (三番目物) 能楽師 金春穂高 9:30 プログラム 2 講話 「秦河勝・聖徳太子と田原本〉」 廣瀬季威 9:50 プログラム 3 仕舞と筝の体験 「葵の上」 佐藤俊之 菊ふじ明歌 10:20 プログラム 4 狂言 「寝音曲」 太郎冠者 禅竹忠亮 主人 岡村和彦 後見 大槻尚平 10:50 プログラム 5 能 「熊坂」 ワキ 原 大 太鼓 辻 雅之 太鼓 上田慎也 小鼓 荒木建作 笛 赤井要佑 アイ 善竹忠重 田中直樹 佐藤俊之 後見 金春嘉織 (地謡) 中田能光 金春康之 湯本哲明 酒井賢一 11:50 閉演 挨拶 |
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子供と能・狂言 ![]() |
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(済) |
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日 時: 平成28年8月27日 午前 9時 開演 |
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プログラム 9:00 開 演 挨拶 田原本・まちをすきになる会・会長 中西秀和 森 章浩 田原本町長 9:10 プログラム 1 巫女舞 村屋坐彌富都比売神社 銚子(ちょうし)の舞 説明 守屋廣尚宮司 御湯(みゆ)舞(湯立舞) 巫女 板持由依 北村佳世 筝 菊ふじ明歌 9:30 プログラム 2 講座 「能 発祥の地 田原本」 たすきの会 副会長 廣瀬季威 9:50 プログラム 3 講座 「猿楽と田楽」 能楽師 金春穂高 10:30 休 憩(15分 10:45 プログラム 4 狂 言 大蔵流 附 子 (ぶす) シテ (太郎冠者)善竹忠亮 アド (主 人 ) 岡村和彦 アド (次郎冠者) 小林維毅 11:10 プログラム 5 能 金春流 金春飛翔 金春穂高 (能楽師 重要無形文化財・能楽総合指定保持者) 舎 利 (しゃり) 原 大 大鼓 辻 雅之 大鼓 上田慎也 小鼓 荒木建作 笛 赤井要佑 湯本哲明 中田能光 佐藤俊之 (後見)酒井賢一 (地謡)渡辺晃一 金春康之 金春嘉織 田中直樹 山田友久 12:00 閉 演 |
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プログラム 4 狂言「附子(ぶす)」 (大蔵流) 太郎冠者 善竹忠亮 次郎冠者 小林維毅 主人 岡村和彦 あらすじ とある屋敷の使用人である太郎冠者(かじゃ)と次郎)冠者は、ある日主人から留守番を言いつけられる。 その際、主人は、「この壺(つぼ)の中には猛毒(もうどく)の附子(ぶす)が入っている。開けただけで死ぬから絶対開けるなよ!絶対だぞ!」と言付けをする。けれど開けるなと言われた以上、太郎冠者と次郎冠者は附子が気になって仕方がない。 そこで、「附子の毒を浴(あ)びないよう、扇(おうぎ)であおぎながらふたを開ければいいんじゃね?」と壺を開ける二人。しかしその壺の中に入っていたのは砂糖(黒砂糖)だった。 太郎冠者と次郎冠者はあっという間に砂糖をなめつくし、壺を空っぽにしてしまった。しかし、主人にこのことが知られたとなればタダではすまされない。 そこで二人は主人が大切にしている掛軸(かけじく)と壺をめちゃめちゃに壊し大泣きして主人の帰りを待った。 帰ってきた主人が「おいお前らどういうことなんだ!」と二人を問いただしたところ、「ご主人様の大切な掛軸と壺を壊してしまいましたので死んで詫(わ)びようと猛毒の附子を口(くち)にしましたが、死ぬことができずに困(こま)っています」と二人は答え、一杯食わされた主人はどうしてよいか途方(とほう)に暮(く)れる。……という話である。(※ 附子とは、毒草トリカプトのこと) |
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プログラム 5 能 「舎利(しゃり)」 (金春流) 金春飛翔 金春穂高 原 大 後見 湯本哲朗 酒井賢一 金春嘉織 太鼓 辻 雅之 上田慎也 小鼓 荒木建作 笛 赤井要祐 地謡 中田能光 佐藤俊之 渡辺晃一 金春康之 田中直樹 山田友久 あらすじ 出雲国(島根県)美保(みほ)の関(せき)の僧が、都を一見しようと京都へ上(のぼ)って来ます。そして、唐(とう)から渡ったという十六羅漢(らかん)や仏舎利(ぶっしゃり)を見ようと、東山泉涌寺(せんにゅうじ)にやって来ます。寺男の案内で、仏舎利を拝(おが)んで感激していると、寺の近くに住むという男がやって来て、一緒に舎利を拝みます。そして仏舎利のありがたいいわれを語っていましたが、にわかに空がかき曇り、雷光がひらめくと、里人の顔は鬼と変わり、自分はこの舎利を望んでいた、昔の足疾(そくしっ)鬼(き)の執心)であるといい、仏舎利を奪い、天井を蹴破って虚空に飛び去ってゆきます。 〈中入〉 僧は、物音に驚いて馳せつけた寺男から、釈迦入滅(にゅうめつ)の時、足疾鬼という外道(げどう)が、釈迦の歯を盗んで飛び去ったが、韋駄天(いだてん)という毘沙門(びしゃもん)の弟の足の速い仏が取り返(かえ)した、という話を聞(き)きます。そして、二人して韋駄天に祈ると、やがて韋駄天が現れ、足疾鬼を天上界に追)い上げ、下界)に追いつめ、仏舎利を取り返します。足疾鬼は、いまは力も尽き果てて逃げ去ります。 みどころ この能は、仏歯をめぐる足疾鬼と韋駄天の争いを見せるのが眼目です。それを釈迦入滅の時に起こった事件をそのまま再演するのではなく、足疾鬼の執心が残って、昔と同じ事件が、日本の泉涌寺で起こった、という形(かたち)にしてあります。 足疾鬼は外道とはいっても、仏法に仇するのでなく、釈迦にあこがれ、せめて仏歯なりとも戴きたいと思って盗むので、あまり憎めません。この能全体が大人の童話)といった感じで、無邪気な能に仕上がっています。前場の中程まではあまり型はありません。クリ、サシ、クセは下(したに)居(いる)のままです。 仏法の東漸(とうぜん)、仏舎利礼賛(らいさん)で、文章(ぶんしょう)は洗練(せんれん)されており、むしろ聞きどころです。次にくる波乱を活かす伏線でもあります。中入(なかいり)前は大活動です。正体を見せた心で立ち、一度橋掛かりへゆき、舞台を見込み、一気に一畳台へ上がって、仏舎利を盗み、これの置いてあった舎利塔を象徴する台を踏み砕き、蹴飛ばして走り込みます。能にしては、あまりの荒々しい所作にびっくりしますが、痛快です。後場は、鬼の本性を見せた足疾鬼が仏舎利を抱え、先ず追われた心で出、舞台で袖をかついで隠れます。続いて韋駄天が走り出、〈舞働〉は二人の追いつ追われつの心を見せます。正先に置かれた一畳台を巧(たく)みに使っています。〈イロエ〉は、やや疲れた足疾鬼がさまよい巡る感じを表現しています。 備考 間(あいだ)語(かた)りの中でも述べられているように、釈迦入滅の時、足疾鬼から韋駄天が取り返した仏歯は、その後、湛(たん)海(かい)の手によって我が国に伝わり、浄)住寺に納(おさ)められました。以来,浄住寺の境内に泉が涌いたので泉涌寺(せんにゅうじ)と改名し、仏(ぶっ)歯(し)を寺宝(としたと伝えられています。 |
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田原本・能の歴史 |
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I.中世室町時代 (1) 圓満井座(後の金春座)が ① 竹田村にあった。 ② 秦楽寺の北門の前にあった。 (2) ① 金春家は秦河勝を祖とする秦氏の一族である。 ② 能を大成させたという観阿弥・世阿弥も秦氏の一族と云われている。 (3) 十市郡は大変多くの藤原氏の荘園であること(興福寺と春日大社)。 (4) 大和猿楽(四座)が能に変化した。 他の国の座は変化せず。(研究対象になったが) この四座(金春・金剛・観世・宝生)のリーダーは金春であった。 (5) 足利義満が人気の観世を見出す。この前に変化あり。 また、義満の死後も変化する。(能はタマゴのようには生まれない) (6) 補厳寺(味間)に参禅して、新しい心境に寄与した。 (7) 補厳寺は世阿弥・壽椿夫婦の菩提寺となった。 II 近世(戦国時代) (1) 平野権平長泰は秀吉の命で田原本を知行地とする。 (2) 秀吉は藤原関白の養子となり、金春流を好んだ。戦国時代の能のピークに至る。 (3) 長泰は細川三斉(この時代の超文化人で金春流)に清原氏の一族として好接遇される。 (4) 長泰は秀吉の天下が決まると金春流に力を入れ家臣として30名を抱える。 身分不相応として糾弾される。 (5) 平野藩は金春流だった。 III 現代(第二次大戦後) (1) 田原本に金春会(ポスターの写真)が出来、人気を博したが、個人の趣味として サポーターの少ない田原本に会を維持することは難しかった。 (2) 補厳寺と補厳寺納帳の発見、「世阿弥参学之碑」と立て看板の設置。 (3) 観世流の奉納能が続く。 (4) 戦後迄金春流の本家家元は奈良にあった。 (一部、伝承を含む) |
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平成27年フォーラム 2015年8月29日 田原本の能 |
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能楽は十五世紀に士民の別なく鑑賞されたものであるが、十七世紀には厳かな面目さをその |
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村屋坐彌富都比売神社 楽戸郷 周辺 小字名・坪名 | |||||||||
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五番立て 能の催しは、一日に五番(五曲)が正式とされています。 異なる雰囲気のものを効果的に組み合わせるノウハウとして、神(神がシテ) ・ 男(修羅に苦しむ男性がシテ) ・ 女(美しい女性がシテ)・狂(狂女などがシテ) ・ 鬼(鬼畜がシテ)の順に演じます。ただし、鬼がシテ(五番目物)であっても 内容がめでたいため 初番目に演じられる場合がある(略脇能物〉など、完全に固定されているわけではありません。 初番目物(脇能) 江戸時代の正式の演能では「翁」につづいて行われた能です。 神を主人公として、神社の縁起や神威を説き、国の繁栄を予祝し聖代を寿ぐ内容で、演劇性よりは祭祀性の強い作品です。 二番目物(修羅能) 仏教では、戦にたずさわった者は 修羅道に堕ちて苦しむといいます。シテ(主に源平の武将の亡霊)が、旅僧の前に現われ、合戦の様子を見せ、死後の責苦を訴え、回向を願う作品です。 三番目物(鬘〔かづら〕物) シテ(『源氏物語』など王朝文芸のヒロインや歴史上の美女、一植物の精など)が、ありし日の恋物語などを回想し 静かに舞を舞うという構成です。全般に演劇性よりも舞踊性・音楽性が強く、能の理想美である幽玄の風情を追求した作品が多いです。 四番目物(雑能) 他の分類に属さない能が、ここに集められています。 男女の「物狂物」、史上の武士を主人公とした「現在物」、非業に死んだ人の執心・怨霊物」、中国人をシテとした「唐物」など、そのスタイルは多様です。また、他の分類に比べて ストーリ-性・演劇性が強い件品が多いです。 五番目物(切〔きり〕能) 一日の番組の最後に置かれる能です。「ピン(一番)からキリ(最後)まで」のキリです。見た目に派手で スペクタクル性の強いものが多いため、フィナーレとして演じられます。 人間以外の「鬼畜や鬼神」の能、「竜神・天狗」の能、猩々・獅子・山姥など「精霊」の類や「貴人」の早舞物などがあります。 資料提供 西御門金春会 金春流能楽師 金春穂高師 |
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村屋坐弥冨都比売神社 (むらやにいます みほつひめ じんじゃ) 祭神 三穂津姫命・大物主命 三穂津姫命は大物主命の妃神で大神神社の別宮 日本書紀の天武天皇即位元年(672)壬申の乱で村屋神の神託により、大海皇子軍勝利、これ以降、奈良時代、平安時代のある由緒ある神社である。 舞楽の歴史に関して、延暦12(793)、神社として初めて雅楽が奉納された。(社伝) 村屋坐爾富都比売神社付近は楽戸郷と呼ばれ・小字名・坪名に「ヒョウシダ」「ツヅミウチ」「フエフキ」の地名が残り、「能」「大和猿楽」以前の祭祀で奉納する「舞」が行われていて、現在も、○平神楽舞と三三九度舞 ○扇舞と榊舞 ○矛舞と長刀舞 ○二本剣舞と一本剣舞の古式の舞が神社でおこなわれている。 補厳寺(ふがんじ) 禅宗・曹洞宗 創建 至徳元年(1384)僧 了堂真覚 世阿弥が31歳頃、当寺2代竹窓智厳に帰依、師より多大の影響を受ける。その芸論には禅林字句の引用が多い。 故 表章法政大学名誉教授、香西精能楽研究者の両先生が世阿弥から禅竹に宛てた書状 「ふかん寺二代ハおふせ候か」にある「ふかん寺」が「補厳寺」であることをつきとめられた。 昭和59年「世阿弥参学の地」建碑。 補巌禅寺納帳 年忌田を寄進したことを記す納帳の記載から裏付けられた。 世阿弥法名、「至翁禅門八月八日」妻寿椿法名「寿椿禅尼」 世阿弥の能楽の真髄「幽玄の美」は、「禅の修業から生み出されたという。 至翁禅門の忌料(きりょう)として補厳寺に寄進された味間領の「字スチカ井 東ノ八」の田は今も存在する 秦楽寺(じんらくじ) 真言律宗 本尊 十一面千手観世音菩薩像 寺伝に秦河勝が観音像を聖徳太子より賜りこの寺を創建したと伝える。 奏楽寺門前と酉竹田に金春屋敷の伝承地あり。世阿弥の『花伝書』の研究で「此(奏楽寺)門前二金春有二屋敷一、其内二天照大神ノ御霊八咫鏡陰ヲ移シ給卜云伝也」の記載があると云われている |
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