田原本歴史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会
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田原本の村々

       
       田原本の歴史(年表)
 

    田原本の概要

       大字 八尾の歴史

    保津環濠集落

       田原本の村々の案内 (大字説明板)

  
   
田原本の村々の案内 (大字明板)
 (
江戸時代以前成立の46ヶ所村々の紹介)
 
  1  田原本 2   新木  3  矢部
  4  5 宮の森 6  秦楽寺   
  7  九品寺 8  八条 9  西井上    
  10 東井上 11 法貴寺 12 八田   
  13 唐古 14  西代 15 今里    
  16  17  小阪 18 北阪手     
  19 南阪手 20  宮古  21 八尾  
  22 黒田 23  富本 24 新町    
  25 佐味 26  大網 27 金剛寺  
  28 松本 29 西竹田 30 十六面    
  31  薬王寺 32  保津 33 三笠    
  34 満田 35  平野 36 平田  
  37 大木 38 伊与戸 39 笠形    
  40 蔵堂 41 為川南方 42 為川北方     
  43 金沢 44  大安寺 45 阿部田  
  46 味間      
   三宅町 大字説明板  
   1  石見  2  小柳   3  上但馬   
   4  但馬    5  伴堂  6  屏風   
   7  三河         
    川西町 大字 説明板  
   1  梅戸  2  下永  3  唐院    
   4  吐田   5   保田  6  結埼    
     

   田原本町 町・村の歴史   大字  里

今里の沿革
1. 唐古今里  (春日大社文書による)  
  貞和3年(1347年)2月付 興福寺段銭、段米帳に式下郡一条院方荘園として、唐古今里3町1反と記載がある

2. 今里村   (郡山藩「郷鑑」による)
 (1) 享保9年(1724年)式下今里村
  ① 面積 年貢地 8町1反26歩  
  ② 戸数 35戸  
  ③ 人口 158人(男84人、女74人
  ④ 今里浜 寺川東岸 舟問屋 今里村庄兵衛
    (舟60艘 舟賃 1駄に付き2匁2分)
 (2) 明治15年(1882)の記録 
  ① 面積 9町余(田4町余、畑4町余、宅地1町余)  
  ② 戸数 48戸 
  ③ 人口 212人(男105、女107人)

3. 大字今里
 (1) 明治22年(1889)4月1日より式下郡川東村大字今里となる。
 (2) 明治31年(1898)8月 磯城郡川東村大字今里となる
 (3) 昭和31年(1956)9月30日磯城郡田原本町大字今里となり現在に至る。
          ◎平成22年(2010)5月 世帯数103戸
蛇巻き
杵築神社の蛇巻き

4. 氏神 杵築神社(きつき神社)

主祭神 須佐之男命(スサノオノミコト) 
脇祭神 (右側) 天児屋根命(アメノコヤネノミコト) 
      (左側)市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)

5. 寺院 通法院 正福寺(融通念仏宗)  

御本尊 阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期作)

6. 今里の蛇巻き

農作物の豊作を祈るとともに男の子の成人を祝う節句行事である。毎年6月の第1日曜日(旧暦のときは5月5日の男の節句の日)に、蛇の形をした長さ18メートルの蛇綱を、新麦わらで作り、13歳から16歳の男の子が蛇綱の頭を担ぎ、それより年下の男の子と、当屋の男たちが胴を持って、村中の家々を大声で「おめでとう」と言って、祝福して回る。その道中で、誰彼の区別なく(男のみ)、蛇綱で巻き込んだりする。巻き込まれたものは1年間息災で暮らせると言われている。蛇巻きの巡業が終わると杵築神社境内の榎の大木に「蛇頭」を上にしてその年の恵方の枝に掛け胴から尾を榎に巻きつけ、その下の「八大龍王」のちいさな祠に川柳で小型の鍬、鎌等昔の農機具と牛、馬の絵馬を作り、お神酒などをお供えし一同が礼
拝する。昭和58年に、隣ムラの鍵の蛇巻きとともに「記
録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として、文化庁より指定されている。    


         今里浜   

 杵築神社の蛇巻き  通称、今里では「浜」と呼ばれているが、今里橋 付近の寺川が改修され昔の面影は何も残っていない。村伝来の古地図を見る限りでは昔の繁栄振りが伺えるが今は掲示板だけが立っているだけ。 田原本北部、今里領と石見領と入り組んだ寺川の東岸に石見領唐の口に江戸期今里村庄兵衛が経営する舟問屋があった。 今里浜は立地条件の良いことからこれらの物資の荷上場として舟問屋が建ち並び問屋町田原本の外港として栄えた。 舟運は水量の多い春と秋に利用され春は上り船が多く塩、肥料の干鰯や油粕が運ばれ、秋は下り船が主で米、雑穀、綿花等が運ばれた。   
                        以上
今里の浜 案内板

  田原本町 町・村の歴史   大字 (はつ) ()

八田自治会(大字)の概要歴史

 八田(はった)の地名は、「大乗院寺社雑事記」康正三年(1457年)によると初瀬川(現在大和川)の上下流地域の武士団の長谷川一党があった。その中で、八田氏(八田弾正忠遠勝)は十市氏と姻戚関係を結んで、春日若宮祭礼の願主人として活躍し、長谷川一党の中心的な役割を果たしていた。大字「八田」の地名の由来は、この八田氏から由来するのではないかと思われる。

 自治会内の社寺には、「伊勢降(いせふり)神社」がある。当神社は勧請年代や由緒などは明らかではないが、旧指定村社である。文化14年(1817年)の「社堂寺院書上帳」に「伊勢降大明神 七尺九尺 当村惣鎮守」と記されている。祭神については、明治4年(1871年)には大名持命・豊受姫命の二神になっている。江戸時代には広井家という世襲神職家があり、享保4年(1719年)以来吉田家許状を受けてきた。境内には、寛永元年(1624年)銘の灯籠がある。境内社は道祖神社、壱杵嶋神社、住吉神社、春日神社、多賀神社、保食神社の六社と祖霊社がある。毎年、二月の御田植祭、三月・九月の彼岸祭、十月の例祭、十二月の感謝祭が執り行われている。

 「(じょう)宝寺(ほうじ)」は律宗で、山号は「伝法山」である。信濃の善光寺に詣でなくても、当寺に詣ずれば同じ利益があると伝わっている。昔、常に法事があったことから「常宝寺」と称するようになったという昔話がある。寺院の草創は明らかではないが、本山「唐招提寺」遣る「常宝寺寄進状」の記事に、僧定範が再興したのは元享2年(1322年)という。本尊は地蔵菩薩像(室町時代前期)。梵鐘は安永3年(1774年)の鋳造である。境内には「八阪神社」が祭られている。

 「西方寺(さいほうじ)」は融通念仏宗で、山号は「日照山」である。寺院の草創は明らかではないが、本尊阿弥陀像(室町時代後期)、境内には元亀4年(1573年)の背光五輪碑と天正7年(1579年)の阿弥陀石仏を遺す。
伊勢降神社 常宝寺
伊勢降神社 常宝寺・本堂

大字 (ほう) () ()

法貴寺の概要・歴史

法貴寺は中世の記録にも「法貴寺」と出てきますが「ほうけいじ」と呼んだそうです。興福寺大乗院門跡寄所の荘園があり、中世には法貴寺郷の中心になっていました。ここを本拠地とした武士団は法貴寺を氏寺として団結したため、法貴寺党と呼ばれました。至徳元年(1384)の「長谷川流鏑馬日記」に「長谷川党」とみえるのがこの法貴寺党のことで、長谷川とは当時の大和川の別名であった初瀬川の意味です。

「大乗院寺社雑事記」によりますと、法貴寺党には「丹波、唐古東、小坂、戸嶋」などの武士がいたそうで、そのうちの丹波氏が法貴寺党の中心的な位置にあったようです。いずれも初瀬川および西の寺川沿に居住していたとされ、多くは十市氏と関係を結んでいました。中世から戦国にかけての法貴寺党は基本的に中立を保っていましたが、勢力は小さかったために十市氏との関係も保って実質的には筒井派の十市氏寄りの姿勢をもっていたようです。しかしその活動の実態は不明なことが多く、大西、森屋など攻防戦の多かった十市氏関連拠点に近い位置にありながらも合戦への参加記録がほとんど知られていません。後に筒井順慶に属してその与力になったらしい、ということです。

千万院
昭和57年水害・水防、初瀬川公園記念碑 法貴寺千萬院 池座神社から門・鐘楼の奥に本堂
拝殿 本殿
池座朝霧黄幡比売神社・拝殿(明治4年頃改築) 池座朝霧黄幡比売神社・本殿(明治4年頃建築)

大字 () ()

 
当「八尾村」は古道「下ツ道」 中世の「中街道」沿いにあり、街道沿いを常盤町、その西の集落を本村と謂ひ、その全体を八尾村と称した。古文書には、「八百村」と記したのもあるが、近世は八尾村と記す。本村は農業を主体とした村落、常盤町は医師や職人、酒造等商業を主体とした集落で双方一体して八尾村が構成され、江戸時代は大和郡山藩に属して居た。
 村の西には約90町歩の田畑を擁し、今の近鉄田原本線の西側まで八尾領である。その為、近辺では最大の溜池を擁し、田畑を潤していたが戦後、土地開発の波に乗り、その多くが市街化し住宅が建ち、西八尾や南八尾等、五つの自治会が設立され、八尾から分離独立して貰っている。
 古文書に拠れば、昔、八尾村は戸数170戸 人口760人程だったが、現在八尾自治会だけでも650戸、外の八尾領内の五自治会を合わせると約1500戸近くになる。尚、隣の新町村は元和年間に八尾村よりの分村とある。

村内社寺を列記すれば、
○鏡作神社(鏡作座天照御魂神社)
  創建は第10代崇神天皇の御代。
 三種の神器の内の「八咫鏡」を鋳造せる神々の祖を祀る神社で延喜式内大社である。郷中は17自治会。
○安養寺(浄土宗)創建は寛永年間。
  国の重要文化財の快慶作「阿弥陀如来立像」は有名である。
○大日堂、薬師堂、地蔵堂等には鎌倉時代の佛像が安置されて いる。

鏡作神社
鏡作坐天照御魂神社
○笹鉾山古墳(第一号墳)
   八尾集落の北西にある墳丘長約48m、二重周濠の全長約96mの5C末から6Cの前方後円墳

○八尾村出身の著名人
  森山 茂(旧姓箸尾) 天保13年八尾常盤町に生る。幕末に 国事に奔走、明治元年官吏となる
  明治23年富山県知事(官選)、
  大正4年貴族院議員(勅選)。大正8年没。
                    

文 堀内篤夫 安養寺 国重文・快慶作「阿弥陀如来立像」所蔵

大字八尾の歴史

100008000年前 縄文時代  縄文人が狩猟 有茎()尖頭器出土

1900年前  弥生時代() 九原遺跡  絵画土器の出土

              羽子田遺跡  集落

1600年前  古墳時代() 鏡造り(鋳造)の技術集団

              羽子田古墳群の築造が始まる。

1500年前  古墳時代()  辨財天ノ塚古墳の築造

              笹鉾山古墳・石見・八尾古墳の築造

1300年前  飛鳥・奈良時代 下ッ道の築造・大和の条里制の施工

1250年前  奈良時代    鏡作郷 (正倉院文書)

970年前 平安時代(延久2年・1070) 池辺(いけのべのしょう)(興福寺雑役免帳)

800年前 鎌倉時代    安養寺・阿弥陀如来立像(快慶作)

750年前 鎌倉時代(宝治2年・1248) 池辺庄(いけのべのしょう)(東大寺文書)

700年前 鎌倉時代(永仁2年・1294) ヤヲ柳田(東大寺文書)


  田原本町 町・村の歴史   大字 西(にしん) (だい) 

大字西代は、田原本町の北部で寺川右岸に位置し、古代の[下ツ道]・中世以来「中街道」が東に通る交通の要所であった。地名の「西代」の「西」は方位、「代」は古代屯倉を耕作していた農民である「田部」の転訛の、古代地名の継承と云われる。  
 室町時代 西代は 「箸尾郷方・・・・西代領  合壱石六斗」(春日進官領納帖記載)
 江戸時代 幕府領⇒大和郡山領⇒幕府領⇒甲斐甲府藩領⇒幕府領 村石高317石余
 江戸時代から明治22年式下郡西代村⇒明治22年から昭和31年川東村大字西代⇒昭和31年から現在田原本町大字西代

八阪神社

 祭神 素佐男命 大字の西、森の中に鎮座し、本殿は一間社 春日造、銅板葺(旧檜皮葺)
 勧進年代・由緒は明らかでないが、江戸時代に牛頭天王社と云われたことから、他の牛頭天王系神社のように、素佐男命の神威で疫病から西代村民を守る為に勧進されたものと考えられる
 
明治3年(1870)、神社名は、健速須佐之男命社「城下城上神社御神体取調目録」(蔵堂・守屋広尚文書)と呼ばれていたが、明治11年(1878)、八阪神社と改号されている。本殿建物は、身舎、向拝共二軒繁垂木で、軒の出も極めて深く、垂木掛破風の内側も絵様が施されているなど、意匠的にも優れており、全般に精細な感じである。

 建立年代については、構造手法より見て、幕末~明治初期頃の再建と見られる。境内には「鏡作社」「八大龍王社」の小社もある。 
なお、平成23年9月10日、拝殿に保存されていた旧棟木を赤外線カメラによる調査の結果、「上棟五頭天王奉 和州城下郡西代村氏子中 幷□ □□□寛永□□□□諸願成就 権大工藤原吉衛ヱ門 皆全満足 同大工藤原弥一郎」の銘文が判明し、八阪神社 前本殿は寛永年間(1624-44)に建立された事が判明した。
八坂神社
八阪神社
西光寺 真宗 仏光寺派

本尊 阿弥陀如来立像 (室町時代前期)
像高 57.8㎝ 正徳元年1711 住僧好道の再建
境内に、石燈篭(安永四年・1775)がある。
なお、平成23年9月10日、八阪神社旧棟木の調査に引続き、本堂の建物調査を実施。その結果、本堂建築様式、建物小屋組、本堂・大棟鬼瓦銘の「延享元年・1744」、「八尾常盤町 堀内新兵衛瓦し」等から、延享元年・1744に建立された事が判明し、八阪神社 前本殿同様、西代村の繁栄と歴史の永さが窺える 

建物調査 林 清三郎 辻川正司 中西秀和
西光寺
西光寺

大字 (から) ()

唐古の概要・歴史

「唐古」は奈良盆地の中央に位置し、国道24号線と下ツ道(県道)にまたがる歴史ある集落である。又、初瀬川と寺川に囲まれた肥沃な土地に恵まれた田園地帯であり、稲作及び野菜作りが盛んである。

春には「唐古池」の堰堤で「桜祭り」が、夏には「神明神社」の境内で「盆踊り」が、秋には神明神社の秋祭りに「子供神輿」が村中を巡幸します。

古くは、弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の全期に栄えた「大環濠」及び「楼閣」のある「弥生の首都」(中堅都市、大都市)であり、「楼閣」は唐古池に再現されている。

「唐古・鍵遺跡」はムラの周囲に濠をもつ環濠集落で、約30万㎡の広さを占有し、集落は東西、南北約600mでやや歪な円形をしている。居住区には木器を生産する場所、あるいは石器を生産する場所、青銅器を生産する場所、そしておそらく大型建物等がある首長の舘の場所、倉庫群があったと推定される。青銅器の工房跡は唐古池の南から発掘されている。

又、初瀬川を遡行して「巻向遺跡」に移行した可能性も大であり、「巻向=邪馬台国」の母体、「邪馬台国」そのものの可能性もある。又弥生時代に続く古墳時代以降も継続して栄えた。

御輿 楼閣
神明神社:秋祭り:御輿 唐古池と楼閣

大字 ()()()


 大字 伊与戸概要・歴史

   大字伊与戸は田原本町東部にあり、初瀬川左岸、古代の中ツ道(後の橘街道)の西側に位置する。
  大字伊与戸の地名は国号地名「伊与」から転じたもの(奈良県史)に由来し、平安時代に「伊保土」が初出  
  平安時代には興福寺領、朝廷の公田畠、東大寺領であった。

 神 社 八幡神社  祭神 誉田別命

  元禄11年(1698)社壱ケ所 八幡宮とある(伊与戸区有文書)
  享保七年(1722)鎮守社 三尺七寸二六尺七寸 八幡 板葺 鳥居木高さ七尺幅六尺とある(伊与戸区有文書)
  文化六年(1809)文政十年(1827)に社殿屋根修復(伊与戸区有文書)

 寺 院  
  伊与戸・会所(村惣堂) 本尊 阿弥陀如来坐像(像高53.6 cm・室町時代・前期)
  元禄11年(1698) 教安寺末寺 村惣堂とある(伊与戸区有文書)
  本堂 桁行四間半 梁間弐間半 藁葺 他の仏像 如来立像(像高52.7 cm・鎌倉時代・初期)

 奈良時代  村の東側に古代の中ツ道(後の橘街道)

 平安時代  延久二年(1070)「伊保土荘十七町八反小」公田畠十一町二反二百四十歩 不輸免田畠六町五反
         二百四十歩  (興福寺段銭段米帳)
  延久二年(1070) 「新楽寺仏聖灯油料免田十三町」が寺域の西方「城下郡路東十六・十七・十八条」に散在
  保延三年(1137) 「城下郡東郷十八条三里七坪町、伊保戸庄妨」(東大寺領杜屋荘検田帳)
  平安~室町時代 伊与戸遺跡 寺院跡? 字タイホウシ他 土師器・須恵器・土釜の散布地

 鎌倉時代  
  寛元元年(1243)「城下郡東郷十八条三里二十七坪の尼浄阿私領」「伊保戸水田」4反を若宮へ寄進
  弘長二年(1262)「新楽寺跡」新楽寺梵鐘(改鋳)享保二十一年(1736)「昔在蔵堂村鐘今在
       高市郡岡寺史用鐫日建保三年(1215)四月鋳(初鋳)」この梵鐘は現在堺市博物館に在る
 南北朝時代 
  応永六年(1399)城下郡の寺問方荘園として「伊与戸 三十六町」
 
 江戸時代  御番衆領慶長郷帳村557石余⇒元和元年(1615)郡山領 二割半無地高増政策で村高696石余 ⇒
  延宝七年(1679) 幕府領 ⇒ 新屋敷(現大字笠形)分村で村高287石余(元禄郷帳)
  元禄十一年(1698) 村状況 戸数24戸 人口128人(本百姓10.非役11.水呑3)牛3
  江戸時代から明治22年 村名 伊与戸村 本村は江戸時代水田の30%が綿作、裏作に菜種栽培
 
 明治以降 明治15年(1882)
  村況 田16町余・畑1反余・宅地1町余 薮地8畝余 木立地 
  戸数32戸 人口147人 荷車3 物産 米270石 麦50石 小麦15 石蚕豆25 石大豆13石
  煙草100貫 干瓢100貫 西瓜250貫 ※ 参考資料 田原本町史・角川日本地名平凡社・奈良県の地名

 明治22年(1889)から川東村大字伊与戸村 昭和31年(1956)から田原本町大字伊与戸
伊与戸
         伊与戸・会所(村惣堂)             惣堂本尊 阿弥陀如来座像         八幡神社

大字 (まん) ()


 満田自治会の概要・歴史

 万田とも書く大和川支流飛島川左岸に位置する。
 寛永8年 (1632)佐味村から分村し、当初は東佐味村といったが宝永5年(1709)満田村と改称。旗本平野氏知行地。 明治元年からは田原本藩領。村高は「元禄郷帳」では佐味村の支郷東佐味村として、514石余「天保郷帳」では514石 余、当地方は綿作地域で水田の30~50%が綿作にあてられていた。また水田の裏作として菜種が栽培された。
 満田池の築造は江戸期であるが年代は不詳である。
 明治22年市制町村制の実施を前に水利上の便利さから東隣の矢部村との合併を希望したが認められなかった。
 同年、平野村の大字となる。昭和31年からは田原本町の大字。

 満田の空襲
 昭和20年6月15日午前10時40分頃(11時25分頃ともいう)米軍機(B29)の空襲により、死者4人、全焼した農家が17戸、本屋が全焼し納屋などが残った家が8戸、納屋などが焼失した家が2戸、堆肥舎が焼失した家が1戸という被害を受
 けた。町内では唯一被爆を受けた村。

 社寺は菅原神社、真宗満誓寺があり、公民館は平成四年に新築された。奈良国体が開催された昭和59年に国道   24号バイパスが開通した。現在は村の東側の国道24号バイパスの上を京奈和道が矢就川に平行して通っている。
 北は生駒の山脈、西は二上、葛城、金剛の山々が遠望でき、田園風景の広がるのどかな集落である。
菅原神社 満誓寺
満田の氏神 菅原神社  真宗 満誓寺                 

大字 () ()

保津
                                           保津集落を南東より望む
大字
保津について
 
 保津は古代には「穂積」と呼ばれていた。『万葉集』の長歌に「幣帛を楢より出でて水蘚穂積に至り 鳥網張る坂手を過ぎ石走る甘南備山に朝宮に仕え奉りて吉野へと入ります見れば古おもほゆ」と 云う、奈良より飛鳥をすぎて、吉野に到る途上を順次に詠みこんだなかの穂積の地であるといわ 
 れている。
 保津の環濠は、大和郡山市稗田の環濠とともに、典型的な 環潦集落として有名である。
 農産物や家財道具を外敵から守るため、木戸と呼ばれる出入り囗には、明治中期まで、門番を
 おいて引き橋がかけられていたという。

 保津の明神講は歴史が古い。昭和50年代頃までは、27軒の男性が講を構成していた。
 一年毎に順次当屋が決まっていて、2月9日(最近は2月第2日曜日)に当屋の家に講員が集まり
 講が営まれる。2月9日の午前2時には「手伝い」3、4人により餅つきが始まり、夜明けまでに三斗  の餅がつきあげられる。早朝、数人の小学生により、村の各家に配られる。
 料理は決まっていて、当屋が準備するものは、ごほう・かずのこ・にまめ・いも・大根・コンニャク・
 チクワ・カマボコなどである。
 講持は、さかな(ぶりの切身)・おから・しほくじろのみそしる・カマスである。
 当屋は2月9日から翌年までの一年間の世話をする。
 10月13日の宵宮祭には講員に、コンニャクとごほう一皿、むきえびとねぎ一皿、れんこんと紅しょう が一皿、えその切り物一皿が出る。また、かがみ餅二升五合を二つそなえる。
 最近は講員の数も減り(現在12軒)、餅つきもなくなり、料理も様変わりしている。
 現在戸数は60戸、人口200人余りである。          
(平野村史より一部抜粋)
                                         
平成23年2月吉日
保津
   鏡作伊多神社の鳥居と拝殿                        南本殿は文化年間(1800)頃の 「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造

大字 (しん) (まち)

  
 新町自治会の概要・歴史

 新町は昔から中街道(古代の下ツ道)に添って両側に住居が数十戸あった。そして村の北端に稲荷神社が祀られています。江戸期には、この神社は豊受大神を小さい雛形の祠で奉祀されて現在の稲荷神社となった。
 時代は昭和になり戦後、昭和31年9月30日、五ケ町村(都村、川東村、多村、平野村及び田原本町)が合併され、現在の田原本町となった。そして合併の一つの約束として都小学校と田原本小学校の統合で昭和34年に新町48番地に新しく、田原本小学校が建設された。


 昭和40年代、国において都市計画法が施行され、新町領(南北3丁、東西9丁)の殆どが市街化区域に指定なりました。又、村の西に6丁道(道幅2mの農道)が現在の道路に整備されました。それと同時に役場北側の道路も都市計画街路として国道24号より6丁道に至るまで整備され、これが阪手八尾大橋線と称されています。これらの道路整備に伴い現在の水仙会館の所にあった田原本警察署も今の新町24番地に移転された。これら諸条件が整えられ、交通量も増大して町の活性化にも重要な役目を果たしています。

 新町の歴史を語る文化財としてこの周辺で最も古い、天文廿年(1551)の新町・閻魔地蔵尊や、17C後半の桃山様式の書院建築 国指定・重要美術品「新町 竹村家・書院」や、新町南入口に寛政六年(1794)の「新町南組常夜燈」があり、常夜燈に当時の新町の商人42名の寄進者名があり、また、新町北入口には、寛政七年(1795)の「城下郡新町村北組常夜燈」もあり、中街道沿いの新町村の繁栄を現している。
 尚、現在の新町は住宅が急速に建ち、始めに申し上げた世帯数も平成22年4月には300世帯を越えるまでに増えています。

稲荷神社
新町・稲荷神社 田原本町役場より見た新町の家並

大字 () ()


 佐味の概要


 大字佐味の集落は、南は橿原市、西は広陵町に隣接する田原本町の南西部にあり、西は曽我川、東は中の橋川に囲まれた田園穀倉地帯にあり、その歴史は大変古く、約2000年前の弥生時代から人々が住んでいた。古代には佐味氏が居住し、飛鳥~奈良時代にかけて「佐味君」「佐味朝臣」の名が「続日本紀」に記されている。
 平安時代は「弘福寺(飛鳥・川原寺)領に施入され、中世以降は「興福寺・春日社」領となり、安土桃山時代~江戸時代は平野藩の知行地となり、その後、田原本藩領下で明治時代を迎えた。
この様に
大字佐味は、永い歴史と文化のある地域である。

 佐味の歴史

弥生時代
 大字佐味から大字満田にかけての東西約500m X南北約700mの範囲に弥生~中世の          遺物散布地「佐味遺跡」があり、弥生時代からの土器・石器・円筒埴輪、管玉が出土し
       採取されている。
小字西森・下出ノ森にも遺物散布地がある。

古代    古代氏族 佐味氏の居住地(地名の由来は、旧十市郡の郡界にあり、「際」が「さひ」に
       転化し、「さみ」となる。「磯城郡誌」)

飛鳥時代 佐味氏の出自は上野国緑野郡佐味郷(現群馬県藤岡市平井付近)旧姓は佐味君。
       天武十三年(681) 佐味朝臣の姓を賜る。佐味朝臣、上毛野国朝臣、は同族。
奈良時代 宝亀三年(772) 佐味朝臣宮(真宮)は正六位上から外従五位下に昇叙。
       宝亀七年(776) 佐味朝臣宮(真宮)は散事従四位下で卒。
       宝亀八年(777) 大和国符、民部省牒に「元故従四位下佐味朝臣官位田」が十市郡
       耳成里にあり。
平安時代 長和二年(1013) 弘福寺領 佐位荘十市郡にあり。
室町時代 前期 光蓮寺(弥勒)如来形坐像像高34.9 cm寄木造 玉眼漆箔
     至徳元年(1384) 「長川流鏑馬日記」に「佐味」と見え、春日若宮祭に流鎬馬頭役の願主人。
       応永二十七年(1420) 一乗院門跡領長川荘内に佐味を保有(佐味氏は長河庄の二ヶ名       の名主。後に一乗院坊人)
       長禄三年(1459) 「依無畠山方之合力、佐味城昨夕落了」佐味兵庫
       文明二十年(1488) 長川党に属す「長川流鏑馬日記」
       天正六年(1578) 石造五輪塔 他に天正9年(1581) 元禄七年(1694)
江戸時代 慶長年間(1600) 慶長郷帳「さび村」石高1,052石余 平野領
       元和年間(1615) 元和郷帳 石高1,1 52石余
       元和三年(1617) 光蓮寺、和歌山県海草郡和佐村大字布施屋で創建 大正8年(1919) 現       在地に移転
       寛永八年(1631) 東佐味村(現満田村)分村により石高638石余 
                  元禄郷帳も石高638石余
       延享元年(1744) 願称寺の寺号免許(明治3年(1870)、廃寺)
       安政二年(1855) 村の戸数78軒369人(男191、女178) 檀家寺 百済・明厳寺319人、
       今市・現得寺30人、浄照寺15人、大網・教行寺5人 (この時、願称寺の名見えず

参考文献①田原本町史本文・資料編 ②田原本町の年中行事 ③日本地名大辞典29奈良県 ④日本歴史地名体系30奈良県の地名 ⑤史遊会資料

佐味
  佐味氏神 天神社       天神社・本殿      市杵鵤神社  八王子神社  浄土真宗本願寺派・光蓮寺
   
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