大字田原本の歴史

    田原本の史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会

田原本の歴史

   田原本には2500年の悠久の歴史がある 田原本町の政治・経済・交通・歴史・文化の中心地
    
 

田原本の歴史(年表)

 
   西暦  和暦   大字 田原本の出来事  №1   
   縄文時代後期  この頃、大字田原本北側小字羽子田に集落が出来、人々が住み始める  
   弥生時代前期  津島神社周辺に稲作をする人々が住み始める。(寺内町遺跡第10次発掘調査)  
   弥生時代中期   この時期も上記集落が続く  
   弥生時代後期  室町区で弥生時代後期から古墳時代初頭の縦穴式住居跡出土 羽子田遺跡の南縁か  
   古墳時代前期  羽子田古墳群が造られる  
   古墳時代中期  羽子田古墳群に小型方墳が造られる  
   古墳時代後期  羽子田古墳1号墳築造 国重文 牛形埴輪及び盾持人物・蓋埴輪の出土
小字百済から多、広陵町百済にかけて百済系渡来人居住 高度な土木技術により新田の開拓
 
   飛鳥時代       
   7C初   太子道造られる(磯城下横道の交差点て゛道路幅約22m)多品治、百済の女を妻とする  
  7C末  この頃、大字田原本東側に下ッ道 中ッ道、(仮称)磯城下横道造られる。  
  奈良時代      
  8C前半   この頃、下ッ道を基準に大和条里制が施行される  
  8C後半   太子道と(仮称)城下横道交差地点(保津・宮古遺跡)に巷の存在。  
  平安時代        
   1070   延久2  この頃、大字田原本は中薗庄と「興福寺雑役免坪付帳」(天理図書館蔵)に荘園名記載  
   11   楽田寺(現本誓寺蔵)十一面観世音菩薩立造立。   
   1125  天治2 祇園社(津島神社)社殿棟札  
   12C中頃 楽田寺に関わる遺構が発掘調査で検出  
   1176  安元2年  「田原本」の地名の初出 紀守時出挙米進上状に「あろち秦楽寺田原本辺尋候とも、凡不候也」(東大寺文書)                             
  鎌倉時代     
   1253  建長5  「タワラモト城下郡」と心阿田地寄進状に記載(東大寺文書)  
   1272   文永9  この頃、本誓寺 田原本小字田中に創建  西誓寺・笠塔婆 「阿閃如来梵字・蓮台・南無阿弥陀仏」  
   1295   永仁3  楽田寺寺名の初出「於田原本楽田寺之別院往生院執筆 観照」(法隆寺灌頂之記)  
   1320   元応2 楽田寺僧・実祐雨乞いの効あり、絹本著色善女竜王図描かしめる「磯城郡誌」
津島神社・旧拝殿発掘調査で鎌倉時代から室町時代の東西大溝検出、楽田寺に関わる遺構か
小室(旧本誓寺)祇園町(旧楽田寺)より、この時代の複弁蓮華文石塔台石5基検出
(平成
23年地蔵堂調査)
 
  南北朝時代      
   1335   建武2  国重文楽田寺・法華経曼荼羅図描かれる(静岡県湖西市 本興寺蔵)  
   1355  正平10  楽田寺神名帳を書写(村屋座彌富都比売神社・森講所蔵)この頃、小室本郷に屋敷地があり井戸が出土(寺内町遺跡第5次発掘調査)  
   室町時代     
   1424   応永31 県指定・楽田寺灌頂堂の両界曼荼羅板絵図描かれる。(現広陵町大福寺蔵)  
   15   本誓寺・聖観世音菩薩立造造立  
   1471  文明3 檜物持売座の坂手座が吉野より仕入れ檜物作座の田原本座より仕入ず争議(大乗院寺社雑事記)  
   1498  明應7 「田原本寺者 聖道所号楽田寺也、平坊二十余ニテ所計也」と楽田寺の状況(大乗院寺社雑事記)
郭内区よりこの時期の祭祀跡より土師器小皿、磁器椀等約1000点出土
 
   1550  天文19 「中薗庄進官、田原本ヨリ沙汰分斗、十市方・役昨年無沙汰」(京都大学蔵・興福寺一乗院文書)  
   1552  天文21 田原本奥地蔵尊造立(閻魔地蔵)  
  安土桃山時代      
   1577   天正5  三輪町・南地蔵尊造立 銘「妙珎童女 天正五年八月二日」  
   1579  天正7   平野長泰 豊臣秀吉に仕える。  
   1582   天正10  本町・南地蔵尊造立 銘「天正十年壬子 □龍□八月十五日」大日如来立坐像・弥勒菩薩?火災に遭う  
   1583  天正11   賤ヶ岳の合戦で平野長泰、七本槍の戦功で江州などで3000石を充行われる(姫島健二家文書)  
   1595   文禄4  平野長泰、賤ヶ岳の旧功により十市郡田原本村外で5000石を充行われる (東京大学史料編纂所蔵「平野文書」)  
   1602   慶長7年 平野長泰、教行寺に田原本村の内、3町歩に寺内町を建設、統治さす この頃、教行寺門前に、中世の溝状落込みを埋立て寺内町の施設を造る (寺内町遺跡第6次発掘調査)  
   江戸時代     大字 田原本の出来事  №2  
   1628   寛永5  平野長泰 江戸にて卒 泉岳寺に葬られる 平野長勝二代目領主となる。  
   1630  寛永7  田原本村小字田中に薬師寺を開基  
   1635  寛永12  平野長勝、田原本藩陣屋を郭内で築造始める。  
   1647  正保4    領主平野氏と田原本教行寺が寺内町支配で争論、教行寺が箸尾に退転  
   1648   慶安1   平野長勝、田原本陣屋町竣工  
   1651   慶安4  円城寺(1747延享4年現・浄照寺)領主平野長勝により田原本教行寺跡に建立。本堂・楼門建立 山門は伏見城より移築か  
   5861  万治- 寛文年間  平野氏菩提寺本誓寺を建立さす   
   1664   寛文4  小室・長顕寺開基 山門(赤門)は伏見城より移築か  
   1668   寛文8  田原本大火、陣屋・武家屋敷全焼(徳川実紀)  平野家初代領主平野長泰の供養碑建立
(薬王寺墓地)
 
   1669    寛文9  平野長政三代目領主となる。  
   17C  後半  この頃、村田東平家建立(棟瓦は正徳四年・1714 1回目屋根葺替か)  
   1700   元禄13  平野長英四代目領主となる  
   1704   元禄17  田原本村元禄絵図描かれる (小林敏良家文書)   
   1714    正徳四年  味間町・医師堂 南町へ移建し医王寺と号す この頃、大門町に家が建ち始める 双方(小林敏良家文書) この頃、味間町に道場(浄土真宗)あり (小林敏良家文書・絵図)  
   1717  享保2  誓寺に平野藩二代目領主長勝の廟建立  
   1720  享保5  野長暁五代目領主となる  
   1743   寛保三年  平野長里六代目領主となる  
   1745    延享2  円城寺を浄照寺(田原本御坊)と改称する(本願寺史料研究所保管「西本願寺文書」)  
   6480   明和~天明年間  この年より17年間、大旱魃で米作・綿作皆無となり町内各寺社で雨乞い踊り盛ん。  
   1778   安永7  平野長純七代目領主となる  
   1780  安永9  おかげ参り流行 平野旗本家領で禁圧に奔走。「奈良県の歴史」  
   8296   天明2~寛政9  この年より15年間、大雨・大風で農作大被害となる。  
   1797   寛政9  この年より9年間、大旱魃で諸作物凶作となる  
   1806  文化3  平野長興八代目領主となる  
   1811   文化8   この年より5年間、大雨・大風で農作大被害となる(初瀬川・寺川・曽我川の決壊)  
   1814    文化11  味間町北道標建立「道標 北面 すぐ 大峯山 よし野 かう野 東面 左 たつ田 ほふ里うじ 大阪 南面 すぐ 京 」  
   1829   文政12   平野長発九代目領主となる  
   1830   天保元年  町内で一カ村に40人~100人程の男女、御蔭踊り、村役人制止  
   1833  天保4  南町道標建立「道標 北面 天保四年癸巳三月 石工王寺村又右衛門 西面 右大峯山吉野高野 南面 左京なら郡山 東面 世話人 袴屋与衛門  
   1835  天保6  この年より19年間、間断なく旱魃、大雨・大風で農作大被害となる。  
  1839   天保10年頃  味間町南道標建立「道標 北面 □く大峯吉野高野伊勢初瀬三輪 南面 □く京奈良郡山 西面 己春ぬしや長二郎建立  
   1842  天保13  魚町道標建立「西面 左 三輪 長谷寺 い勢 南面 右 た津田 法里うし 大阪 東面 
 天保十三年壬寅三月建之」
 
   1853   嘉永6  儒学者・谷三山、田原本領主に尊皇攘夷を献策。吉田松陰、八木より田原本を通り郡山へ。  
   1854   嘉永7   平野長裕十代目領主となる  
   1855   安政2  本誓寺に平野藩九代領主長発の廟建立  
   1863   文久3年   天誅組大和五条で挙兵。田原本領主に出兵催促。追討の為郡山藩、小泉藩出兵。  
   1864   元治1    新町道標建立「北面 左 大峯 よしの 高野 南面 元治元年甲子三月建立
西面 京 なら 古りやま
 この頃 堺町道標建立「北面左大峯山よしのかふや 南面非心施一人功徳如大海 東面 京 なら 古う里山
 
   明治時代    
   1868   明治1  奈良県設置⇒奈良府となる  
   1868   明治1   平野藩校 明倫館⇒択善館設立  
   1869   明治2    田原本藩版籍奉還、藩主知事に任ぜられる 奈良府⇒奈良県と改称  氏神祇園社を津島神社と改名  
   1871   明治4  廃藩置県により田原本県⇒奈良県。田原本郵便御用取扱所(郵便局)  
   1872   明治5   養成館(田原本小学校)創立  
   18736  明治69  行政区が第3大区第1小区となる(明治1029日~123)  
   1876  明治9   奈良県が堺県に合併  
   1877  明治10  三輪警察署田原本分署の設置。明治天皇行幸、浄照寺にて昼食  
   1879   明治12  田原本村と田原本町が合併  
   1884   明治17  自由民権運動盛ん  
   1886   明治19  田原本尋常小学校設立  
       大字 田原本の出来事  №3  
   1887   明治20  大阪府の管轄をはずし奈良県再設置される。田原本高等小学校設立  
   1889   明治22   田原本町、川東村、多村、都村、平野村が成立  
   1894   明治27   田原本銀行開業  
   1896   明治29  大和鉄道株式会社設立願書(二階堂ー田原本ー八木ー岡ー新子間)  
   1897   明治30  田原本郵便電信局、電信業務(電信)の開始。羽子田1号古墳跡より牛埴輪(国・重文)出土  
   1897   明治30  旧田原本町所属郡名が十市郡から磯城郡に変更  
   1904   明治37  三輪警察署田原本分署庁舎新築。 1925本署に昇格。  
   1908  明治41   田原本郵便局に電話開通  
   1910   明治43  田原本尋常小学校新校舎落成。  
  大正時代      
   1918   大正7  大和鉄道田原本ー新王寺間、蒸気機関車で開通  
   1922  大正11  奈良県道路元標の内 旧田原本町道路元標建立 奈良県下の市町村間の距離測定基準として建立  
   1923  大正12   大阪電気軌道鉄道西大寺ー畝傍間、電車開通。大和鉄道田原本ー桜井間、全通。  
  昭和時代      
   1927   昭和2  この頃よりタクシー営業開始 1929 三輪ー田原本ー法隆寺間バス開通  
   1933   昭和8  田原本高等実科女学校設立  
   193637  昭和1112  奈良県、京都帝國大学による唐古遺跡第1次調査「田原本町勢要覧」刊行  
   1940    昭和15   国道15号線現24号線)奈良ー橿原神宮間開通。奈良ー八木間バス開通  
   1941   昭和16   各尋常高等小学校を国民学校と改称。  
   1944    昭和19  大和鉄道田原本ー桜井間廃線(資材セレベス島へ)集団疎開、勤労奉仕(柳本飛行場・橿原神宮外苑)  
   1945   昭和20  満田に米軍機の空襲。第2次世界大戦終戦 第1次農地改革  
   1946    昭和21  各学校奉安殿撤去、 第2次農地改革施行  
   1947   昭和22  田原本商工協会(54田原本町商工会改称)川東、都、多、平野農業協同組合設立  
   1948   昭和23  大和鉄道電化、新町・竹村家書院 国重要美術建造物に指定  
   1951  昭和26  町内各農地委員会が農業委員会となる。 田原本郷土史発刊  
   1956   昭和31  田原本町町内有線放送開始  近鉄橿原線踏切に自動遮断機設置  
     田原本町ゴミ焼却開始、学校給食開始田原本小学校 倉橋ため池北部幹線通水、  
     新田原本町発足(田原本町・川東・多・平野・都村の合併により)  
   1958   昭和33   田原本町役場前庁舎落成  
   1960  昭和35  県道田原本ー桜井間一期工事完成。前田原本警察署庁舎完成。  
    〃     〃  田原本小学校新校舎落成。田原本町国民健康保険事業開始。  
   1971  昭和46  田原本町中央公民館完成、県営上水道受水開始。  
   1972   昭和47  老齢者(75歳以上)医療費無料、県花き植木センター・県情報処理センター完成  
   1976  昭和51  共下水道事業着工、吉野川分水国営事業完了町内受給492  
   1977   昭和52  田原本郵便局移転  唐古鍵遺跡第3次調査・唐古鍵遺跡本格的発掘調査開始、  
   1978   昭和53  奈良地方法務局田原本出張所庁舎落成。 奈良中央信用金庫本店新築開店  
   1984    昭和59  わかくさ国体開催、国道24号バイパス田原本~曲川間開通。田原本町商工会館開館  
   1985  昭和60  田原本町清掃工場完成、安養寺・阿弥陀如来立像 国重文指定。  
  1986     昭和61   唐古鍵遺跡遺発掘50周年記念シンポジューム、「田原本町史本文編」発行  
   平成時代     
   1994  平成11  田原本町役場新庁舎完成、 唐古池に復元楼閣完成  
   1999   平成11  唐古鍵遺跡国史跡指定。西地区で大型建物検出第74次調査  
   2001  平成13  唐古鍵遺跡発見100年記念「弥生都市は語る」(大阪府立弥生文化博物館)  
   2002  平成14   ヒスイ大勾玉を入れた褐鉄鉱容器発掘第80次調査  
   2003  平成15  唐古鍵遺跡で大型建物検出第93次調査  
   2004   平成16  田原本青垣田原本青垣生涯学習センター開館  
   2006   平成18  京奈和自動車道 郡山南IC-田原本-橿原北IC開通 田原本駅前広場・駐輪場整備事業始まる  
   2008   平成20  津島神社平成拝殿・社務所竣工  津島神社・境内社 戎神社竣工本殿竣工  
   2009   平成21  田原本駅前広場・駐輪場 整備事業完成   
   2012    平成24  小林家文書 1132点 田原本町文化財に指定  
       参考資料 小林敏良家文書 田原本藩旧記・田原本郷土史・田原本町史・
田原本町の佛像 浄照寺文書
  田原本史遊会会報 河野昭昌氏より資料提供他  
資料提供 中西秀和
      
 
      

    田原本町  町・村の歴史 大字  () (わら) (もと) 

        田原本町の政治・経済・交通・歴史・文化の中心地

大字田原本の概要
 大字田原本は田原本町の中央部に位置し、寺川左岸にあり、近鉄橿原線・田原本駅、近鉄田原本線・ 西田原本駅を中心に、東に国道24号線、西方に京奈和自動車道が通る交通の要所にあり、田原本町役場が置かれ、古代の下ツ道、中世以来の中街道を中心に商業の中心地として発展して来た正に、田原本町の政治・経済・交通・歴史・文化の中心地である。

縄文時代
 約3500年前の縄文時代・後期に大字田原本の北西の保津・宮古遺跡、北の羽子田遺跡に人々が住み始めた。

弥生時代
 前期(2300年前)には、集落が形成されたことが平成19年(2007)の津島神社拝殿建替の事前発掘調査(寺内町遺跡第10次調査)で、19世紀頃の基壇造成地から、弥生時代前期・中期の弥生土器、サヌカイト製石剣、石包丁が出土。又、中期の弥生土器に摂津地方の壷が出土していることから、この地域と交流があった。基壇造成土が周辺からの客土であれば、津島神社周辺に弥生時代の集落の存在が考えられる。 

平成19年3月 
津島神社拝殿建替の
事前発掘調査出土遺物
資料提供 
田原本町教育委員会 
文化財保存課

サヌカイト製右剣、結晶片岩製石包丁 弥生時代前期・中期の弥生土器  弥生土器中期 摂津地方の壷
古墳時代

田原本幼稚園東側で、6世紀前半の前方後円墳「羽子田古墳1号墳」から、明治30年(1897)に国指定重要文化財牛形埴輪や盾持ち人物埴輪・蓋形埴輪が出土し、この周辺から北西部に、4世紀~6世紀の2基の前方後円墳、2基の円墳、4基の方墳が東西約500m南北約800mの範囲の微高地に「羽子田古墳群」が拡がっている

 古墳時代の終り頃から飛鳥時代になって。大字田原本から広陵町百済付近にかけて朝鮮半島の百済系渡来人が多く居住し、彼らの持つ高度な土木技術によって新しく大規模な水田が開拓されていった。 これは幸町内に小宇百済があり、
又、田原本町大字多はこの地方の氏族であった多(太)一族の本貫地で日本書紀を編纂した多(太)安麻呂 又、壬申の乱で大海人皇子方の武将で功労のあった武人で父 多(太)品冶、そして祖父・多(太)菰敷の妻は百済からの渡来人である事など百済系渡来人の文化の影響を受けた。これらの事や地名の拡がりから、大字田原本町から広陵町百済にかけて百済系渡来人が居住していたと思われる
羽子田古墳1号墳 出土 盾持ち人物埴輸頭部 右国重要文化財牛形埴輪

飛鳥・奈良時代

 町の東側に、大和国条里制の基準となる「下ツ道」が造られ、その幅は大和国条里復元図から約43mと推定され、この幅は現在の京奈和自動車道の幅員とほぼ同じで、これは、「下ツ道」の真中に川を利用した運河で、両側を道が造られたために、古代に於いては特出した幅員になったものと思われる。

この「下ツ道」を使って、藤原京から平城京への遷都の資材や人々の搬送に使用したものと推定される。
奈良時代から施行された大和国条里で大字田原本は式下郡路西十六条一里と十七粂一里に跨る。
又、大字田原本は古代より明治30年(1897)まで十市部に属し、大字田原本北側の大字新町との間を流れる
「ヱブナ川」を境に大字新町は磯城下郡(城下郡)に属していた。この「ヱブナ川」添いに古代の「宮古・阪手道」が最近の保津・宮古遺跡の発掘調査で判明し、この道は、西は大字富本の飛鳥川から大字宮古、大字田原本、大字阪手、大字大安寺、大字伊与戸へと続き村屋座彌富都比売(むらやにいますみふつひめ)神社に至ると考えられる。この「宮古・阪手道」は条里制(じょうりせい)の整った田原本付近では(まれ)な、東西南北の条里を西北西から南東に斜めに横切っていて、条里制でも規制出来なかった古代からの重要な道路で、西は大字宮古で太子道と大字田原本で下ツ道と、東の村屋座彌富都比売神社では中ツ道と交わる「重要な道路」と考えられる。

平安時代  
           
大字田原本の氏神・津島神社は明治2年(1869)まで祇園社と云われ、江戸時代の記録に、天治二年(1125)の本殿棟札が記載され、この時代祭紳・素佐鳴命の神威で疫病から田原本村民を守る為に勧進されたものと考えられる。 この時代の安元2年
(1176)の東大寺文書四ノ七十五「紀守時出挙米進上状」に、田原本の地名が初めて出てくる。 大和国は藤原氏の勢力の増大と共に大字田原本を含む大和国は興福寺・春日大社や摂関家の荘園が多くなり、大字田原本も興福寺雑役免荘園の「中薗庄(なかそののしょう)」と興福寺雑役免坪付帳・延久二年(1070)に記載されている。この荘園管理の為の寺、楽田寺が創建され、本尊十一面観音菩薩立像が現在、客佛として本誓寺に安置されている
旧 楽田寺本尊・十一面観音菩薩 旧楽田寺蔵 県指定「両界曼荼羅板絵

鎌倉時代

 楽田寺周辺の発掘調査で12C中頃の遺構や、津島神社・旧拝殿基壇最下層からこの時期の大溝の遺構が見つかった事、平成23年大字田原本「地蔵堂」調査で楽田寺と、小室小字田中旧本誓寺周辺からそれぞれ2基の鎌倉時代石塔基礎台石(柘榴石黒雲母白雲母花崗岩・五ケ谷石)が発見され、それぞれの寺院の関係が推定される。永仁3年(1295)の法隆寺文書 「法隆寺一切経 九一三 奥書」に「田原本楽田寺之別院往生院で 観照が一切経を書写」とあり、楽田寺寺名の初出である。

安土桃山時代

  天正元年(1573)織田信長によって室町幕府が滅亡し、信長による天下統一が始まるも、志半ばの天正十年1582)で明智光秀の謀叛本能寺の変により、天下統一は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に引継がれ、翌天正十一年1583)信長の家臣であった柴田勝家との賎ケ岳合戦で、木下藤吉郎の家臣7(七本槍)の一人として武功を挙げた平野権平長泰が3000石の知行地を近江国で承け、後、文禄四年(1595)旧功で5000石に加増、十市郡・田原本村他に知行地を充てがわれるが、長泰は賎ケ岳合戦の他6人の家臣のはいずれも万石以上の知行地を与えられるのでいずれ加増転封を期待して、京・伏見屋敷に在し、知行地田原本には赴むかなかったが、知行地田原本の経営に努め、まず、文禄五年(1596) 知行地の十市郡秦楽寺村下ツ道(中街道)沿いの九品寺に租税免除と自治を認めた楽市楽座的町場を造り九品寺・岡本家文書、次に、慶長七年(1602)田原本村に 教行寺を招聘し、田原本村の内3町歩に寺内町を建設、統治さすなど、知行地の経済基盤を計り、平野藩の繁栄維持に努めた。 平野権平長泰は戦国時代を生きた無骨な武人と云われるが、当時の武家の嗜みの、茶道・能狂言を嗜み、特に細川三斎と親戚関係で、三斎の母は清原宣賢の女(娘)、長泰の父・長治は清原宣賢の孫と非常に親密で、千利休が豊臣秀吉の勘気により堺へ退去の時、危険を顧みず細川三斎と古田織部の二人が見送った。利休は御礼に茶杓を削り、織部には銘「泪」、三斎には銘「ゆがみ」を贈った。利休遺品の細川家家宝の銘「ゆがみ」を長泰に贈っている程の関係であった。    

 江戸時代
 寛永五年(1628) 平野権平長泰江戸にて卒、泉岳寺に葬る。 二代目長勝の跡式(跡目相続)には、平野家は苦慮をした。 それは、長勝が大坂夏の陣の時、豊臣方として大坂城に参陣していた事で、徳川幕府としては平野家御取潰しの対象であろう。この事は権平長泰存命中も一番気掛なことで、長勝の跡式のことを細川三齊に頼みにしていた。 
細川三齊・忠利親子は時の徳川幕府実力者土井利勝に尽力し、ようやく二代目長勝の跡式となり、明治の廃藩置県まで平野藩が存続し、江戸時代・田原本陣屋町から明治時代以降近代の田原本町の繁栄に繋がった。 寛永121635平野長勝、薬王寺村 藤井家を仮陣屋とし、田原本藩陣屋を郭内で築造始める。正保41647領主平野氏と田原本教行寺が寺内町支配で争論、教行寺が箸尾に退転し、跡地に、慶安41651円城寺を(延享41747・現・浄照寺と改名)領主平野長勝により田原本教行寺跡に建立。本堂・楼門建立 山門は伏見城より移築か。 引続き北隣に、万治-寛文年間1658-61平野氏菩提寺本誓寺を建立さす。  慶安1年・1648平野長勝、田原本陣屋町竣工

田原本藩陣屋町竣工当時の絵図
藩置県後の陣屋図明治4年・1871頃
田原本藩陣屋 大手櫓門
(小林家文書 田原本村繪圖 元禄十七年(1704)
廃藩置県後の陣屋図明治4年・1871頃
 (小林家文書箱1117-3

領主は、寛文9年(1669)長政三代目領主 ⇒ 元禄13年(1700)四代目長英 ⇒ 享保5年(1720)五代目長暁 ⇒ 寛保3年(1743)六代目長里 ⇒ 安永7年(1778)七代目長純 ⇒ 文化3年(1806)八代目長興 ⇒ 文政12年(1829)九代目長発 ⇒ 嘉永7年(1854)十代目長裕  明治2年(1869) 廃藩置県 ⇒ 田原本県

原本陣屋町竣工以降
  陣屋町竣工20年後の寛文8年(1668)陣屋・武家屋敷全焼の大火があったが、村田東平家の様な総塗込瓦葺の耐火建物も建てられ、中世以来の中街道を中心に商業の中心地として陣屋町も商業繁栄とともに発展し、正徳4年(1714)頃には大門町にも人家が建つようになってきた。

村田東平家 西側 村田(久保)家 東側川合家 復元 立面図 平面図 林 清三郎 氏     浄照寺・楼門

大字 田原本 社寺と信仰

津島神社  
 
指定村社 主神 素佐鳴命 (牛頭天王)  櫛稲田姫命 右社 八幡神社 誉田別命(応神天皇)
左社 春日神社 武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売大神
延喜式内式完成以後の延長五年(927)以降創建か、大字田原本の産土神(氏神)津島神社の創建は平安時代に遡り、当時、田原本に疫病が蔓延したため、霊験あらたかな京・八坂神社 (素佐鳴命・櫛稲田姫命)より分祀し、「祇園社」と呼ばれ、社殿の最古の棟札は天治21125で、その後、弘安九年1286社殿再建上棟明暦三年1657八幡宮建立祇園社の祭祀は禅宗黄檗流 神宮寺 感神院が行っていた。 境内社に戎社、磯城農学校から遷された豊受社がある。 
明治2年、神仏分離時に「津島神社」と改められ現在に至っている。

稲荷神社 
 
字奥垣内・郭内  旧無格社 祭神・保食神
通称「屋敷のお稲荷さん」と呼ばれ、境内社に大神神社も祀り、社前に田原本藩最後の藩主平野長裕が明治元年(1868)寄進の石燈篭が建つ。 拝殿に文久三年(1863)藩主長裕(鱗雪楼)張行の稲荷社奉納句額40   

厳島神社  
 字西の脇・小室
  旧無格社
 文禄四年(1595)検地の際に、津島神社(祇園社)に遷したが、元禄年間(16881704)に神夢の告により、再び 現在地に遷座。 又、寛永四年(1627) の勧進とも伝えられている。

楽田寺  
 田原本堺町  融通念仏宗 山号
 雨宝山  本尊 阿弥陀如来坐像  ※ 後述 中世・楽田寺の項    

本誓寺   
 田原本茶町
  浄土宗    山号山 慈航山 本尊 阿弥陀如来立像
  創建は鎌倉時代小字田中で、寛政四年(1792)田原本藩領内書上記録に「字田中北寺跡の畑地一反二十四歩・・・・・・本誓寺往古此所ニ有寺屋敷下」(「古雑抄」天理図書館近世文書)と、田原本村文禄四年検地帳寫(小林家文書)にも同様の記録がある事や、本尊 阿弥陀如来立像が鎌倉佛である事から鎌倉時代に小字田中に創建されたと思われる。 平野長勝 正保4年(1645)教行寺が箸尾に退転させた跡地北側へ、万治-寛文年間(165861本誓寺を小字田中より移転、建立し、菩提寺とする。又、境内に平野藩主霊廟(二代長勝享保二年1717・九代長発安政二年1855)を建立。 その後、元文五年(1740)、天明四年(1784)、明治21年(1888)と3度の火災に遭ったがその都度再建され、現在の本堂は昭和58年再建された。 山門は江戸時代の建物と思われる。

浄照寺  
 
田原本茶町  浄土真宗本願寺派  山号 松慶山 本尊 阿弥陀如来立像
慶安4年(1651)円城寺として領主平野長勝により田原本教行寺跡地南側に建立。本堂・鐘楼はこの時建築、山門は伏見城より移築か。その後、延享3年(1746)に本末改めの件で円城寺寺名が廃止、翌延享4年(1747に、浄照寺となる。 江戸時代は、今井・称念寺、高田・専立寺、畝傍・信光寺、御所・円照寺と共に大和五ヶ所御坊と呼ばれ、中本山の格式で田原本領内で末寺8ヶ寺、触下52ヶ寺を数えた。 建物は他に、庫裏・対面所・山門・楼門があり、寺宝に、「大幅の御影」と呼ばれる親鸞聖人画像がある。 又、浄照寺や田原本村、平野藩に関わる貴重な「浄照寺文書」があり、この文書の調査がここ10数年かけて行われ、その成果は、田原本町指定文化財「小林家文書」と共に、今後の田原本町の江戸時代から明治時代の研究に貢献するであろう。

長顕寺  
 田原本坊屋敷・小室
 日蓮宗 山号 本妙山 本尊 釈迦・多宝如来坐像  寛文4年(1664)開基