為川南方

   田本の歴史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会
たすきの会
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田原本の村々

 

大字 (ため)(がわ)(なん)(ぼう)


 
大字 為川南方の概要・歴史

 
大字為川南方は田原本町東部にあり、初瀬川右岸、古代の中ツ道(後の橘街道)の東側に位置し、又、集落の東方小字藪の内に、弥生時代、古墳時代~平安時代の集落跡があり、発掘調査で
土坑、河跡の遺構が見つかり、土師器・須恵器が出土、為川南方周辺に約1800年以前から人々がくらしていた長い歴史の村である。 
大字為川南方の地名は「田部川」から転じたもので、古代屯倉の農民は田部」に由来する。

神社 須佐之男神社 祭神 須佐男命
  境内中程に樹齢約400年位の「栴壇」の大樹。奥に石垣上に覆屋の中に並列して春日造り
本殿 屋根厚板葺き大和国中では珍しい社殿二社並列、春日造、板葺、千木、勝男木付・1,5m
程の石垣上に、切妻造、桟瓦茸正面に石柵を据え、周囲板柵の覆屋のなかにあり保存もよい。

寺院 浄土宗 視生寺 
    本尊 十一面観世音菩薩立像 (江戸時代初期 像高126.7cm)
    江戸時代の大和国三十三ケ所巡礼の第三十三ケ所目の札所
    江戸時代に,この視生寺とは別に、真言宗 無本寺 無住 観音堂1宇が在った。

伝統祭礼行事  献當講(オスコスサン)
 田原本町・為川南方、蔵堂、
天理市遠田(旧川東村)の三ケ大字の輪番で行われている数献當講(為川南方)はオスコスサンと唱え諦をr餅食い諦」蔵堂ではスコンドコウと唱え、講を「赤飯講」、遠田ではスウトンコウ又はスウコントウコウと唱え講を「芋食い講」とも言う)頭屋宅で数献當
ご神体の壷を収める屋形つくりが行われ、午前10時半頃より頭屋宅を出発して為川南方の東約500mの数献當講のご神体の壷
(高さ約40㎝・口径約12cmの素焼きの壺型土器)が掘り出された為川南方、歳堂、遠田の大字境界の遠田池(小字名 古屋敷南西角へ昨年の頭屋より送られた壷を厳粛受け取り帰り、この壷を一年間頭屋が奉祀し来年行事当日次の蔵堂へ受け渡しをする。この様に一つの壷をご神体とし隣接する集落が輪番での祭礼行事は田原本町周辺も含め他に例のない特異な伝統祭禮行事である。隣接する集落のコミニケーションを計る為の行事であるのか、この伝統祭礼行事の成立ちや背景など研究課題のある民俗行事である

参考文献 
①和州祭礼記 辻本好孝著 昭和19年 ②田原本町年中行事 田原本町教育委員会 昭和62年
弥生時代、古墳時代~平安時代 為川南方集落遺跡  
奈良時代 古代の中ツ道(後の橘街道)
室町時代 天文十五年(1547)「為川 田原本中薗進宮入地壱町四反」

                                        (十市郷諸荘進官米注文)一乗院文書
江戸時代 為川村の本村 枝郷に中条・北方)
   御番衆領 ⇒ 元和元年(1615)郡山領 ⇒ 延宝七年(l679)幕府領
                            ⇒甲斐甲府領 ⇒  幕府領
   村高「慶長郷帳」「管文郷帳」共521石余 二割半無地高増政策で村高517有余本村は
   江戸時代水田の40%が綿作、裏作に菜種栽培 為川池の築造は延宝以前
享保七年(1722)村状況 戸数55戸 人口270人
明治以降 明治22年から川東村大字為川南方
       昭和31年から田原本町大字
参考賛料 田原本町史・田原本町の仏像・角川日本地名大辞典奈良県 平凡社奈良県の地名・田原本・まちをすきになる会・田原本史遊会
      須佐之神社 視生寺(現 為川南方会所)