大網

十六面

松本

大木

西竹田

宮古

黒田

薬王寺

阿部田

金沢

九品寺

小坂

笠形

大安寺

為川北方

蔵人

   田本の歴史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会
たすきの会
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田原本の村々

 

大字 (くら) (んど)


大字 蔵堂概要・歴史

 大字蔵堂は田原本町東部にあり、初瀬川を挟んで右岸左岸に跨り、古代の中ツ道(後の橘街道)が中心を通り、又、大和国条里制の方位に沿わない富本よりの古代からの斜行道路(仮称磯城下道、富本・保津・阪手・蔵堂道)がこの中ツ道に交差している古代より交通の要所である。
大字蔵堂の地名は古代「藏部」又は、「鞍作部」に由来する。(県史)

 蔵堂に人々が住み始めたのは弥生時代からで集落の東方蔵堂南池・北池周辺の字藤原田から弥生時代土器の遺物が採取されていて蔵堂周辺に約1800年以前から人々が暮らしていた長い歴史の村である。
  次の古墳時代になって集落の南方小字シロトに北向の前方後円墳が築かれ田原本町では数少ない前方後円墳の一基である。
  又、蔵堂の歴史に大きな位置を占めるのは、村屋坐彌富都比売神社を始めとする服部神社・
久須須美神社・村屋神社で田原本町には16社の延喜式内社があるが、内4社が村屋坐彌富都比売神社関係社で、多座彌志理都比古神社の関係社4社、鏡作座天照御魂神社の関係社4社と共に祭祀関わった田原本町の主要な神社で、特に、能・狂言の始祖となった大和猿楽に関わる「楽戸郷」が存在した事が、大和猿楽から能・狂言の発展に寄与し、これが村屋坐彌富都比売神社の特徴でもある。
  神社の歴史的関わりは、弘文元年(672)壬申の乱の時、村屋坐彌富都比売神社の神托により大海人皇子軍が近江軍を破った。中世以降も中ツ道・橘道として他の上ツ道・下ツ道と共に大和盆地を南北に貫く主要道路で現在にも活かされている。

近世藏堂村の属邑であった「村屋」には奈良・鎌倉時代に下記の記録がある
  天平十九年(747) 「城下郡村屋」(大安寺伽藍縁起並流記資財帳)
  天平宝宇二年(758)「杜屋」(後金剛般若経料銭下充帳)(正倉院文書)
  建長三年(1251)  「守屋城下郡」(永舜田地寄進状)(束大字文書)
  永仁二年(1294)  「森屋東大寺+市郡東郷十九条三里」(大仏灯油料田記録)
  村屋は村屋・杜屋・社屋・守屋・森屋と表記されていて「蔵堂」と「村屋」の繋がり強い。
  つぎの南北朝時代には
  貞和三年(1347)  「蔵堂田部河五十四町半」(興福寺造営段米井田数帳)
  応永六年(1399)  「蔵堂田部河五十四町半」(興福寺造営段米井田数帳)
  永享元年(1429)  「蔵堂田部河五十四丁半、五貫文」
                     (公方御下向段銭方引付・内閣大乗院文書)
  元亀三年(1572)  「森屋蔵堂城以下渡了」(多門院日記)この時期地衆森屋氏の森屋蔵堂城が   あった
江戸時代
  御番衆領 ⇒ 元和元年(1615)郡山領 ⇒ 延宝七年(1679)幕府領 村高「慶長郷帳」「寛文郷帳」共
  537石余 二割半無地高増政策で村高672石余 本村は江戸時代水田の30%が綿作、裏作に
  菜種栽培
  蔵堂池の築造は享保以前

蔵堂の氏神・須佐之男神社 (式)村屋坐彌富都比売神社 浄 福 寺

大字 (ため) (がわ) (ほっ)(ぽう)

 
 大字 為川北方概要・歴史
  
 
大字為川北方は田原本町東部にあり、初瀬川右岸、古代の中ツ道(後の橘街道)の東側に位置する。 大字為川の地名は「田部川」から転じたもので古代屯倉の農民の「田部」に由来する。

 祠     大神宮・地蔵尊・金毘羅・社殿

奈良時代  古代の中ツ道(後の橘街道)が大字為川北方の西側を通る。
南北朝時代 
        貞和三年(1347)「蔵堂田部河五十四町半」の田部河は為川と思われる。
              (興福寺造営段米井田数帳)
室町時代  天文十五年(1547) 「為川田原本中薗進官入地壱町四反」
              (十市郷諸荘進官米注文・一乗院文書)
江戸時代  御番衆領 ⇒ 元和元年(1615)郡山領 ⇒ 延宝七年(1679)幕府領 ⇒ 甲斐
        村高「旧高旧領」に北為川村210石余 北為川新田4石余
        寛政十一年(1799) 大神宮石燈籠造立
 幕末    為川村が為川北方・為川南方・為川中条方に分村。
        為川北方を北為川村・田中村・為川新田とも云われ、後、為川北方も呼ばれる。
江戸時代から明治22年 村名 為川北方
明治以降
        明治15年(1882)頃  村状況 戸数12戸 人口60人(男29人女31人)
        物産 米157石余 麦31石 蚕豆15石 大豆11石 菜種18石 草綿3600斤
        明治22年(1889)   川東村大字為川北方
昭和31年(1956)から 田原本町大字為川北方
     ※ 参考資料  田原本町史・角川日本地名大辞典奈良県 平凡社奈良県の地名

為川北方を西より望む  後方  龍王山と三輪山 為川北方の大神官・地蔵尊・金比羅・社殿

大字 (だい) (あん)()


大字
大安寺概要・歴史
 
 大字大安寺は田原本町東部にあり、初瀬川と寺川、古代の下ツ道と中ツ道の中間に位置し、集落の中心に大和国条里制の方位に沿わない東西方向より南に約35度振る古代からの斜行道路(仮称磯城下道、富本・保津・阪手・蔵堂道)が通る。大字大安寺の地名は奈良時代、大字大安寺を含む「十市郡千代郷」に奈良時代に藤原京の大官大寺を平城京に移された「大安寺」の寺領が大倭国5ケ所の1つとして「大安寺伽藍縁起並流記資財帳(天平十九年・747)」に記載され、「大安寺」寺領があった事に由来するのであろうか。

神 社 
森市神社   祭神は生雷神 元
大字大安寺西方約400 mの中世居館跡の柿ノ森遺跡の小字西馬場に在ったが、大正13年に現在地に遷された。

寺 院 
浄土宗 教安寺 本尊 阿弥陀如来立像(平安時代)
      会所寺 由緒明らかならず 本尊 阿弥陀如来坐像(室町時代) 現大安寺公民館
      奈良時代  平城京・大安寺の寺領か
      神亀三年(726) 教安寺 寺伝に 行基菩薩の創建と伝えられ、境内に行基堂がある。
平安時代  
      弘仁六年(815) この地が、嵯峨天皇の勅命で編纂された「新撰姓氏録」大和神別条に
      記載された「服部連」の居住地と伝える。
      大安寺池北方に約200mの範囲に遺物散布地があり、この時代の集落跡か。
室町時代  
      明応八年(1499)~元亀三年(1572)の『補厳寺納帳』第三冊(年号記載なし)に「カキノモリ
      又四郎」の名がある。
      永禄十一年(1568)『多門院日記』十四 十月に「一今日柿森・結崎の辺焼有云々・・」
      更に、「一柿森分松少‥」『多門院日記』十四 九月に「一昨年程柿森八条庄‥」とあり、
      現在も約一町歩余り周囲より1段高い畑地在る。
      元亀二年(1573)  十市氏被官の南柿森氏が箸尾氏に生害され、十市氏が箸尾氏に報復
江戸時代 
      慶長年間(1596-1615) 御番衆領「慶長郷帳」 村高 463石余 元和元年(1615)郡山領、       後、二割半無地高増政策で村高 579石余 延宝七年(1679)幕府領
      大安寺村は江戸時代水田の30~50%綿作、裏作に菜種栽培 用水不足のため
      大安寺池の他に、享保十一年(1726) 三村(大安寺・蔵堂・伊与戸)立会池築造
明治以降 
      明治15年頃(1876) 村状況 税地 田34町余・畑1町余・宅地2町余 戸数51戸 人口287人
      荷車7、物産 米360石、
      明治22年(1889)から川東村大字大安寺 
      昭和31年(1956)から田原本町大字大安寺
左3枚 森市神社 教安寺

大字 (かさ) (がた)

 笠形と春日神社

 当地のカサガタ(笠形)はカスガタ(小字春日田)の名前からつけられたものと言われています。
春日田とは春日神社の神田 (現在の県営住宅の一角にありました) のことでその名の通り春日神社が鎮座されていました。

 笠形は寛元元年(1243)の史料では伊
戸庄(いよどのしょう)(伊保戸)の内にあり寛永十六年(1639)に伊与戸から分かれて「新屋敷村」となりました。明治九年(1867)の新屋敷村は三十八戸七十四人と記録されています。
 そして明治二十四年(1891)十月二十一日になって現在の「笠形」と改称されたのです。

 笠形の春日神社は、祭神を天児
屋根命(あめのにやみこと)とし武槌命(たけみかづちのみこと)、
経津主命(
ふつぬしのみこと)、姫大神を祀っています。旧社号を毘沙門天といいました。
毘沙門天はわが国では飛鳥時代から信仰され、福徳と富貴の天としても信仰されて後にいわゆる七福神の一つにもかぞえられました。古く笠形の繁栄を祈って祀られたのでしょうか。
また境内にある文化九年(1812)の銘のある太神宮灯ろう(地元ではゴウシンサンと呼ぶ)は、新屋敷村若連中が寄進していて、当時の村人の信仰の篤さがうかがえます。
このころに春日神社は現在の地に移されてようです。後の大正十二年(1922)新しく拝殿が建てられました。
 そして笠形と改称してから百年後の平成三年(1991)十月これを記念して本殿が落慶し、さらに同七年(1995)十月古くなった拝殿を改築いたしました。ここにたずさわっていただいた多くの皆様に
感謝を申し上げ、永く記録にとどめるものであります。

中ツ道(なかつみち)郡分(こおりわけ)観音(かんのん)

 古代の道、上ツ道と下ツ道の中間を南北にはしる道を「中ツ道」と呼び、東側の農道がそのなごりといいます。藤原京香具山付近から発して、ほぼ直線に平成京へと北進します。しかし、中世以降はやや西に移り「橘街道」と呼んで親しまれてきました。北の方角にある村屋神社一帯は、壬申(じんしん)の乱(672)の戦場と伝えられ戦で失明した兵士の眼を癒したのが、この観音との伝説があります。
約100メートル東は、城上(しきじょう)城下(しきげ)十市(とおいち)の三郡が古く境を接したので「郡分」といい、昔その付近に祀られていたことから「郡分観音」とよばれています。 

郡分観音と中ツ道説明板 笠形の春日神社

大字 () (ざか)

 大字小阪

 田原本町中央部に位置し寺川の右岸にあり、この寺川流路が飛鳥・奈良時代の下ツ道で古代からの交通の要衝であった。現在も小阪の真中を国道24号線が通り交通量も多い地区で、最近は本村集落の東西南北の四方は新興住宅地、国道24号線沿いは郊外型販売業、サービス業等商業地となっている。

 小阪では弥生中期の約2000年前の集落跡が出土している。又、小阪の氏神である、鏡作麻気神社の境内にある観音堂は明治の神仏分離令までは、「観音寺」と呼ばれ、鏡作麻気神社の神宮寺で、観音堂には平安時代12世紀前半の十一面観音菩薩立像をはじめ鎌倉・室町・江戸時代の佛像があり、小阪の歴史の永さを伺うことが出来る。

 小阪の歴史
弥生中期     里中に集落が営まれる。(昭和61年・町教委・小阪里中古墳・遺跡発掘調査)
古墳時代後期  里中古墳の築造(昭和61年・町教委・小阪里中古墳・遺跡発掘調査)
飛鳥・奈良時代 下ツ道の整備
平安時代     延久2年(1070)  式下東郷「中喜殿庄」に当り十七町二反七十五歩
            12C前半    小坂旧観音寺・観音堂本尊「十一面観音菩薩立像」造像
鎌倉時代      13C後半    小坂旧観音寺・観音堂「地蔵菩薩立像・像高18.9 cm」造像
南北朝時代    14C後半    小坂旧観音寺・観音堂横在「石造・五輪塔」造立
室町時代  永享元年(1429)  公方下向反銭方引付城下郡「貴殿庄」十一町大小坂筑前守廣元
        寛正6年(1465)  大乗院門跡領「小坂」(足利義勝将軍御下向寺門段銭帳)
        文明7年(1475) 長谷川一党之内丹波・唐古東・小阪・戸嶋(大乗院寺雑事記)
        文明17年(1485) 小坂氏は長谷川一党として、応仁・文明の乱以降、「越智」方
        天文15年(1546) 「小坂」は春日若宮祭・興福寺十二大会の料所
江戸時代 慶長郷 385石余 元和元年(1615) 郡山藩  寛文郷帳385石余
 寛文12年(1672) 「小坂村ニアリ吉田氏寺南都大乗院殿一代隠居寺也大石塔有之」在安楽寺
 延宝 7年(1679) 幕府領 
 延宝8年(1680)  甲斐甲府藩領
 元禄2年(1689)  観音堂本尊「十一面観音菩薩立像」厨子扉紀年銘
 元禄8年(1695)  小坂池築造 元禄郷帳481石余(二割半無地高増政策に)
 宝永元年(1704)  幕府領 天保郷帳429石余
 文化元年(1804)  水田の48%が綿作。水田の裏作に菜種栽培
 嘉永2年(1849)  小坂旧観音寺「紙本着色・佛涅槃図」
 
明治時代   
 明治3年(1870)  鏡作麻気神社、須佐男神社、的場社の取調書上帳 この時には小坂旧観音寺・
             薬師堂や須佐男神社の弥勒仏堂は存在していた。
 明治7年(1874)  小学校・明瞭舘開校 
 明治9年(1876)  小学校・明瞭舘が法貴寺に統合され廃校
 明治15年(1882)  税地田23町余、畑1町余、藪地2反余、村の戸数35軒、144人(男80、女64)、
            荷車3、物産 米268石、麦41石、蚕豆60石、菜種35石、草綿6,250斤、
 明治22年(1889)  川東村となる。
 昭和15年(1940) 国道15号線(現 国道24号)開通 翌16年奈良~八木バス開通
 昭和31年(1956)  田原本町となる。 大字の戸数34軒、168人
            社寺 麻気神社、八坂神祠、的場神祠、檀家寺 教安寺

     (式)鏡作麻気神社       小坂旧観音寺・観音堂と石造物     須佐男神社       稲荷神社

大字 品寺(くほんじ)

九品寺村 <田原本町>

 [近世]江戸期~明治9年の村名。十市郡のうち。奈良盆地中央部、大和川支流寺川左岸に位置する。西は秦楽寺じんらくじ村である。近世初期秦楽寺村から分村して成立。文禄5年平野権平長泰が領内にぎわいのために秦楽寺村内に町方を設け、各地から商人を集め諸役を免除、やがてこの町方が秦楽寺村から分離して九品寺村となったという。地名は九品寺(廃寺)に由来する。中街道(古代の下ッ道)が通る。旗本平野氏知行地、明治元年からは田原本藩領。村高は、「元禄郷帳」「天保郷帳」では秦楽寺村の枝郷と見え、ともに246石余。中街道に沿って町方が形成され、江戸中期には軒役を負担する役家が47軒あった(田原本町史)。明治9年秦庄村の一部となる。

 ごうしんさん 大神宮
 ごうしんさんをまつる日は、毎年7月16日の夕方に各戸提灯を持って大神宮の所に吊ってお参りをする。
 家の順に灯明の箱が毎日回って来て、その時の夕方になれば大神宮の灯ろうに明りをともす。
 これから考えられることは、ごうしんさんの行事は近世後半に盛んに行われた伊勢神宮の風潮のなかでできたであろう。ごうしんさんの意味は定かでないが、この風潮を考えると、当時の新しい仲間が 郷(ごう・村)の神といって、このような行事ができたのではなかろうか。

大字 (おお) ()

 大字大木概要

大字大木は田原本町東部にあり、初瀬川左岸、古代の中ツ道(後の橘街道)の西側に位置する。
 環濠集落の遺構が残る。集落の北部に中世の土師器の散布地がみられ、中世の集落が存在した。
 大木の地名の初出は南北朝時代に地侍森屋一党の大木氏が本拠地とし、「森屋大木殿‥…」とある。 江戸時代は旗本武藤氏の知行地で、江戸中期に歌人森本宗範が「歌塚縁起」「和陽皇都廟陵記」を著わす墓は教安寺にあり、この地域は教育に熱心で私塾「竹林堂」には最盛期塾生が100人を超えていた。

 神 社 (式)岐多志太神社  祭神 天香語山命 天児屋根命 二柱
 大正八年の石鳥居拝殿と本殿二殿板葺、銅板で覆う春日造で、本殿の前に、神明造の木鳥居
 祭神 天香語山命名は、石凝姥命とも呼び、天児屋根命と共に、鏡作座天照御魂神社と同じ。
 この地域の祖は、物部大木連一族 旧祭神名は、太根命、明治7年(1874)の神仏分離令の時、
 式内社 岐多志太神社となった。

寺 院 
 融通大念仏宗 仏光寺
 (融通大念仏記録)に「和州城下郡大木村道場 代々看坊当村無住 此道場従往古在之開祖年暦不分明」とあり、本堂と庫裏が一棟となっていたが、近年に改築された。明治24年(1891)「寺院明細帳」に境内坪数 百四十坪、壇信人数三拾人住職兼務。境内仏堂は薬師堂、庚申堂、鎮守社。
本尊 阿弥陀如来立像像高94.7 cm 平安時代後期12世紀後半頃 来迎印を結び、頭・胴部を通す檜材 一木造で平安時代初期一木造りの特徴に通じ教安寺の阿弥陀如来立像と共通する。
   
 真宗興正寺派 善照寺 本
尊 阿弥陀如来立像 像高55.7 cm 江戸時代前期。
 創建については寛政二年(1790)の「御坊付末寺触下地頭付年号年暦控」に「寺号御免之頃相知不申」(田原本・浄照寺文書)とあり、これ以前から寺号のあつた寺で、明治24年(1891)の「寺院明細帳」に境内坪数百弐拾三坪 檀徒二五人
 
 大木・薬師堂 本尊 薬師如来三尊 中尊像高76.2㎝ 室町時代前期 左日光・右月光菩薩立像 現在は薬師堂・稲荷社

 大字大木歴史
奈良時代  村の東側に古代の中ツ道(後の橘街道)
南北朝時代 文和二年(1353)「森屋大木殿五段分、十年全未進」(東京大学所蔵東大寺文書1)所収
江戸時代  江戸時代は旗本武藤氏の知行地で水田面積の30~50%が綿作、裏作に菜種栽培。
 村高
 「慶長郷帳」「寛文郷帳」とも451石余 「元禄郷帳」「天保郷帳」とも453石余
明治以降  明治15年(1882) 村況 田29町余・畑3町余・宅地2町余 不定地1反余 薮地1反余
 戸数58戸 人口294 人荷車17 物産 米315石・麦70石・小麦21石・大豆13石・蚕豆25石
 江戸時代から明治22年(1889) 川東村大字大木村 
 昭和31年(1956)から 田原本町大字大木

     (式)岐多志太神社          仏光寺       大木・薬師堂           善照寺・本堂
                        阿弥陀如来立像   薬師如来坐像

大字  沢

 金沢の概要

 当村の歴史を振り返りますと、江戸時代の享保期間(18世紀前半)、当村は徳川幕府領で、為川村の枝村であったと記されています。その為、当村は為川南方、中条方(金沢の旧名)、為川北方の三つに分かれていたそうで、それから後、この中条方の人口は明治時代に至るまで他の2村に比べて著しく増加しています。原因づくりなどの仕事に携って精一杯働き、耕地に縛られないため、決して裕福ではなかったにしても、人口増加を可能にする経済的地盤があったからだと考えられます。

 当村の往時の隆盛ぶりは、村の中核をなす浄土真宗
本願寺派・光源寺の偉容を観ても想像がつきます。

延享3年(1746年)創立と伝えられていますが、同寺の旧記には更に10年以上前の建立と伝えています。ご本尊は江戸時代の作で木造の阿弥陀如来立像です。
尚、付随する新しい建物は平成17年に村人達の寄進によって建て替えられた庫裏であります。

 他にもう一つ村の中核をなしているのが、町立ふれあいセンターです。 浄土真宗 本願寺派・光源寺  
鐘楼付近から本堂を望む 
 平成9年に総合福祉施設として建設されたもので、老人福祉から児童福祉に至るまで様々な施設と
事業を展開して、田原本町民の憩いの場となっております。

以上の通り簡単に当村の概要を説明しましたが、現在は世帯数100戸強で、村人達は皆、温厚で人情味にあふれ日々協力しながら生活しています。

町立 ふれあいセンター

大字 (じゅう) (ろく) (せん)

 十六面の概要

江戸時代の寛永17年(1640年)、薬王寺、竹田、保津の各村の領地を分けて、十六面村(その当時の石高は 585石)ができました。この集落は現在の村より東北方の畑地の微高地が、古い旧集落ではないかともいわれています。
江戸時代は平野藩領であったが、明治22年(1889年)に市町村制の施行で平野村大字十六面となり、更に、昭和31年(1956年)に市町村合併で現在の田原本町大字十六面となりました。(ふるさと歴史探訪ハイクより引用)

田原本町ライフマップより
社寺として
市杵島神社
 祭神 市杵島姫命(弁天)
  由緒 勧請年代や由緒は明らかではない。 尚  現在の拝殿は昭和15年(1940年)9月に改築 
 が行われた
安堂寺
   宗 旨 浄土宗    宗 派 鎮西派知恩院
   本 尊 阿弥陀如来  
   由 緒 元禄12年(1699年)6月25日 
  欣誉順生が開基
   明治29年(1896年)6月 本堂が落成
教専寺                          
   宗 旨 浄土真宗  宗 派 本派本願寺
   本 尊 阿弥陀如来  
   由 緒 宝歴10年(1760年)9月6日創立 
        寿恪が開基(寺院明細帳
市杵島神社鳥居 奥 拝殿・本殿 左に郷蔵
郷蔵     神社前の旧公民館は元、郷蔵で、文久元年(1861年)に建替えられたもの。
平野藩に納める年貢米を収蔵する建物でした。
棟の鬼瓦に領主、平野氏の三つ鱗紋が見えます。
新公民館 平成元年12月に田原本町公民館十六面分館として落成され、その後、
        平成9年4月に田原本町より十六面大字へ移管される。
現 況   十六面領地は、飛地が多数存在し、本村と離れて薬王寺と旧田原本町の中間の領地には、昭和60年頃から住宅のミニ開発が順次行われ、住宅地となっている。平成23年度より、国道バイパス保津西交差点周辺が市街化地区になり、今後は様変わりすることが予想される。

大字 (アベ)()

阿部田村   位置 東経135度48分 北緯34度32分
          海抜 53メートル38センチ  高低差 1メートル94センチ

歴 史    元和元年(1615年)     八条村より分村(元和郷帖)
         延宝8年(1680年)11月  59漸(軒)人口324人(男144人 女180人)
                          米850石(127t) 綿作付率30% 牛8頭
明治8年(1875年)     千代村の一部となる
          平成22年(2010年)11月  66軒 人口232人(男106人 女126人)
                            米1200石(180t)綿作付率0% 牛0頭
生 活    八条村より集落内の川を挟んで定住。昭和30年代(1955年)まで土堤川で、生活用水利用、各戸前に汲場用階段があり、果樹木・花を植樹食器・洗顔・風呂水として利用 各戸に炊事用井戸有り
    川 : 鮒 鯉 泥鰌 鰻 川エビ シジミ カラス貝
    田 : 田螺 などが生息し食用とする   後の河川改修・水質悪化により面影は無くなる。
        現在は上下水道を完備している

市(
イチ)杵()嶋(シマ)姫(ヒメ)神社  
壬申の乱(672年)で戦功のあった村屋坐(
むらにいます)弥()冨()都()比()売()神社の末社
            明治34年(1901年) 現公民館敷地より移設 建立
            祭神 炊星姫命 宇麻志摩遲命 拝殿・鳥居・玉垣 
平成9年(1997)10月改築
溜池       阿部田池 築造(小字:大田・大膳)2町池。南半分 延宝8年(1680)~延享
3年(1746年) 北半分 明治18年(1885年)拡張。
このため池に内堤があり昭和50年代(1975年)改修によりなくなる

十念寺    浄土宗 総本山・知恩院嫡末寺 教安寺末寺 元亀5年(1570年)開基
         本尊・木造阿弥陀如来立像 平安時代後期の作

光明寺    真宗興正派 元禄13年(1700年)開基 道場・享保2年(1717年)建立
         東本願寺・西本願寺・興正寺の三ケ寺の末寺 広陵町箸尾・教行寺
         御休息所 享保6年(1721年)興正寺から寺号・本尊受ける
         本尊・木造阿弥陀如来立像
公民館    明治36年(1903年)
         明治初年(1868年)の神仏分離令で 市杵嶋姫神社が、明治34年(1901)に
         十念寺の隣地から現在地に移設 その跡地に建築 改修数回

阿部田の氏神 市杵嶋姫神社           阿部田より三輪山を望む

大字 (やく) (おう) ()

 薬王寺の概要

樟の巨樹    
所在地  田原本町薬王寺514番地   八幡神社
県天然記念物指定 昭和52年5月20日(昭和32年申請) 
大きさ 幹周り約6メートル 高さ約30メートル 樹齢 おおよそ500年
枝は四方に広がり、約400平方メートルの神社の境内を覆い尽くしており、この大きさ
は日本でも最大級のものと言われている。
大字薬王寺では、昭和36年秋これを記念し、当時の氏子総代らの尽力によって八幡神社の社殿、拝殿、玉垣の改修、さらにクスノキの記念碑を建立した。薬王寺ではこのクスノキがその威厳を保ち、更に今後何百年も繁栄する事を見守り続けて行きます。

蓮休寺
所在地 田原本町薬王寺中垣内
浄土真宗本願寺派 山号は薬王山 本尊・阿弥陀如来立像
元文元年(1736)創立、僧観了の開基と伝えられる。
明応6年(1497)8月6日、第八世蓮如上人が本善寺(吉野町)への途中、当時道場と称した当寺で休息したことから、寛永3年(1750)に寺号を定めるに当たって「蓮休寺」としたという。
表門の脇に「蓮如上人御休地当寺」の石柱が建つ。
明治4年(1871)12月、廃寺処分を受けたが、同6年3月に再興、当時の寺勢は本堂、庫裏、門、境内72坪、檀徒55である。
本尊像背面に「大和国十市郡薬王寺村道場蓮休寺」の墨書銘がある。
もと薬王寺の旧仏と伝えられる、薬師如来坐像は室町時代中期の作。
蓮休寺山門と奥に本堂 八幡神社の樟の巨樹

大字  (まつ) (もと)

松本の概要

 
大字松本は、西は広陵町に隣接する田原本町の西部にあり、西には曽我川東には飛鳥川に挟まれた田園穀倉地帯であり、地名は当地が松の植生による。地名は室町時代に初出、環濠集落の遺構も残る。

神 社 三ノ宮神社 祭神 皇子神命  
慶長年間(1596)以前に多村の皇子神命神社(三ノ宮)大洪水で小字宮森に流れ着き、以来松本村で祭祀するようになった。
     春日若宮神社 祭神 天押雲根命 小宮とも云う。
現在三ノ宮神社に合祀されている。

寺 院 大慶寺 浄土宗
本尊 阿弥陀如来坐像像高(64.8 cm) 寛文年間(1661~73)良知比久尼の再興
享保九年(1724)「御年貢地 浄土宗 境内五拾坪 京知恩院末大慶寺」 他に聖観音坐像等あり
松本寺 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来立像(像高42.1 cm) 享保九年(1724)「五ヶ寺道場」
         寛政二年(1790) 「東西立会道場」(浄照寺文書)

松本の歴史
室町時代  
「箸尾郷方‥・松本領 合六斗九升六合」(春日進官領納帳)とあり、国民箸尾氏の支配下
江戸時代  
幕府領 ⇒ 元和五年(1619)から郡山藩領 村高 慶長郷帳(1596~)「松元」村名で744石余
寛文郷帳(1661~)も同じ 元禄年間(1688~)以前大字金剛寺村分村後も郡山藩領二割半無地高
増政策によるも「元禄郷帳」「天保郷帳」村高 450石余 当村は綿作地帯で水田の30~50%
綿作、裏作に菜種栽培

松本浜  
大和川の舟運で飛鳥川の松本浜まで川舟が遡上し、通船問屋が置かれ大和川の通用船が73艘
あり、春には大坂から油粕・干鰯・塩・雑貨が、秋には米・木綿等農産物が大坂へ積出された。
享保九年(1724) 家数56軒 人数252(男126、女124 ・ 僧2) 牛2、馬3、荷車4、
明治時代  明治6年(1873) 小学篤信館開校 明治8年(1875)佐味小学校に統合
明治15年頃(1876) 村状況 税地田22町余・畑5町余・宅地1町余薮地1反余
   戸数43戸 人口215人(男119、女96) 牝牛2、荷車6、物産 米285石余
   麦25石余・小麦16石余・大豆7石余・蚕豆37石余・糯米15石菜種35石・
   草綿4000斤 社寺 三廼宮神社・春日若宮神社・真宗 松本寺
明治18年(1879) 曽我川氾濫当村内に出来た水溜を利用して金剛寺・松本の共有池を築造
   明治22年(1889)から村名松本村   昭和31年(1956)から田原本町大字松本

参考文献①田原本町史本文・資料編 ②田原本町の年中行事 ③日本地名大辞典29奈良県 ④日本歴史地名体系30奈良県の地名 ⑤史遊会資料
写真 左より右へ 松本南より・三ノ宮神社・松本寺・大慶寺
曽我川井堰石柱・三ノ宮神社本殿 松本ながれ地蔵尊・大慶寺諸仏

大字 西(にし) (たけ) ()

大字西竹田自治会の概要・歴史 
  
 西竹田は田原本町の西部、飛鳥川右岸にあり、江戸時代まで竹田村といったが当時同じ十市郡に同名の竹田村がある為、明治初年に東・西を冠称し、西竹田と改称。

古墳時代  西竹田小字八王子7番地に「烏帽子塚」の古墳がある。(田原本町文化財分布図)
平安時代
  延久二年(1070) 城下郡に竹田北庄、竹田東庄、竹田南庄の地名(興福寺雑役免帳)
  永享元年(1429) 大乗院方の十市郡に「竹田小地小路分3丁3反」とある(公方御下向反銭方引付)
  天文5年(1536) 「若宮祭礼幷十二大会料所十市郷内に」竹田小路庄とある。(現小字中障子)
西竹田遺跡  西竹田小字蔵桂を中心に西竹田全体に、平安時代の土師器・須恵器・瓦等の散布地があり、平安時代の集落があったようだ。  
室町時代      
西竹田 金春屋敷跡  大字西竹田160
大和猿楽四座の一つ金春流円満井座の金春禅竹(応永十二年(1405)~文明三年頃(1470)は別名を七郎氏信、竹翁、賢翁禅竹、竹田太夫、金春太夫、禅竹は法名で世阿弥の娘婿。大和猿楽の金春座の中興、能役者名手と云われ、又、優れた能作者で作品に「芭蕉」「雨月」「玉蔓」「定家」、著述書に「六輪一露秘注(文正本)」がある。円満井座猿楽の祖先を秦河勝及び子孫秦氏安を中興の祖と云う伝称の秦河が創建した秦楽寺が、西竹田と同じ旧寺川水系の東南約2㎞の至近距離にあり、大字西竹田も秦氏一族との関係も深く座を竹田に構えたので「竹田座」と称し、西竹田に金春屋敷跡の伝称がある。 元竹田村から分村した隣村の大字十六面に昔、十六の面が天降ったと云う地名口伝がある。橿原市東竹田には、特に金春円満井座や金春禅竹に関わる歴史的文書や伝称がない。以上の事から大字西竹田に「金春屋敷」が置かれていた事と思はれる。今後、「金春屋敷」に関わる資料や、この周辺の考古学の発掘調査が進み、「金春屋敷」に関わる遺構・遺物が検出され、「金春屋敷」の研究が進むことを期待する。
江戸時代
  交代寄合平野藩領、「慶長郷帳」の村高は799.89石
  寛永十七年(1640) 十六面村に石分(分村)の為、村高は714.389石「元禄郷帳」    

治時代以降

明治初年(1868頃)   竹田村より竹田南方が
分村し、大字平野となる。村高は358.268石

明治初年(1868頃)~明治22年(1887) 同じ
十市郡に竹田村が2村ある為「西竹田村」

明治15年(1882)  田22町余・畑8反余・宅地
1町余・戸数47戸・人口249人、米270石

明治22年~現在まで大字「西竹田」 

昭和31年~現在まで 「田原本町大字西竹田」

昭和41年県道14号線開通、
昭和55年浄水場、昭和60年清掃工場完成 
    
西竹田の社寺

八坂神社 祭神 須佐男命 境内社 菅野神社
        笛吹神社 元拝殿は 文化二年建築 
西竹田・地蔵屋形 1.1m角、流造、本瓦葺 柱上部の組物、両妻の蟇股、向拝木鼻江戸19C中頃 

西専寺   浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀
如来立像   宝暦三年(1752)寺号

大字 () (あみ)

大網の概要
 大網地名は大阿弥(春日神社文書)大依羅⇒大依網(おおよさみ)の二字化地名か依羅・依網は網を張って鳥を捕らえる土地。大網は、西は広陵町に隣接する田原本町の南西部にあり、西には曽我川東に飛鳥川に囲まれた田園穀倉地帯であり、当大網は南隣の大字佐味と広陵町大字百済は曽我川を挟んで近世は十市郡と広瀬郡、現在も磯城郡田原本町と北葛城郡広陵町に分かれているが、「百済庄指図」に描かれているように、本来一体をなすものと思われる。

大網の社寺
菅原神社  勧進年代は天正年間(1573~92)以前と伝えられ、享和二年(1802)の村明細帳(大網区有文書)に「天満宮」と記載され、境内に白山神社、春日神社を祀る。
教行寺  浄土真宗大谷派・願成山・教行寺・本尊 阿弥陀如来立像
      百済寺十二坊の一坊で建長七年(1255)迎田祐円住持が天台宗から浄土真宗に転宗のうえ迎田願成寺を広瀬郡百済村新子垣内に寺地を有していたが文明末年(1480年代)に兵乱により十市郡大網に移転、寺名も教行寺とし、その後明暦二年(1656)現本堂を再建。寺宝に蓮如上人六十一歳の寿像を自画し祐順に付与した絹本著色の「御寿像」(文明七年1475)と教祖・親鸞聖人画像(桃山時代)が伝わる。

 大網・薬師堂 本尊 薬師如来坐像(室町時代・前期) 破損佛立像(平安時代・後期)が伝えられていて、現在、大網11組で輪番で祭祀・管理され毎年1月8日午後4時から薬師さんの祭が行われている。この薬師堂は東隣に菅原神社があり、明治の神仏分離令までは一体として祭祀されてきたと考えられ平安時代より続く寺院と想定される。

道 場 
浄土真宗本願寺派で慶長年間価(1596~1615)の創建と伝えられる道場寺が菅原神社の南東約150 mにある。現在無住であるが、本堂(桁行四間・梁行三間)は昭和二十年八月以降古材を使って建替えられた。
 本尊 阿弥陀如来立像
 
大網の歴史
 鎌倉時代  建長七年(1255)迎田祐円住持が天台宗から浄土真宗に転宗のうえ迎田願成寺を
 広瀬郡百済村寺地有
 南北朝時代 貞和三年(1347)十市郡一乗院門跡領 興福寺段銭段米帳(春日神社文書)に「大阿弥 九町」
 応永六年(1384)興福寺段銭段米帳(春日神社文書)に「大阿弥〈今号大堺〉九町」
 室町時代  文明末年(1480年代)兵乱により十市郡大網に移転旧願成寺の古材を用い堂舎を建立寺名教行寺
江戸時代  慶長年間(1600)慶長郷帳「村」石高173石余 秀長室松野領 寛永十六年(1639) 郡山藩(本多勝行)領
明暦二年(1656)教行寺現本堂を再建される。延宝七年(1679)幕府領 延宝八年(1680)甲斐甲府藩領
宝永元年(1704)幕府領  享和年間以前大網池築造 享和元年(1801) 郡山藩領
天保郷帳「村」石高174石余水田の30~50%綿作 天保七年(1836) 大洪水で悪所でき郡山藩見分
明治十五年(1881) 税地田2町歩(20町歩か)・畑3町歩・藪地3反余。戸数74軒381人 荷車5 牝馬1
      物産 米280右、麦28石、菜種20石、綿2,000斤  社寺 真宗教行寺、菅原神社

参考文献 ①田原本町史本文・資料編 ②田原本町の年中行事 ③日本地名大辞典29奈良県 ④日本歴史地名体系30奈良県の地名 ⑤史遊会資料
菅原神社
教行寺            薬師堂       初薬師御供撒

大字 (みや) ()

 宮古地区の概要

 宮古集落の起源は鍵、唐古とほぼ同じ頃の弥生時代とみられ、住宅建築時の発掘調査で多くの土器などの出土を見る。また、中世の頃のものとみられる「宮古の泥塔」が小字名「寺東」付近から多く出土し、近くに「寺北」「寺西」「大門」などの小字名が残ることから、ここにある薬師堂は、「三箇院家抄」に記載されている「鏡作の西邊 常楽寺祈願所」の「常楽寺」と考えられ「招提千歳伝記」に、「常楽寺宮古」を唐招提寺の枝院に挙げられ、律宗寺院であったらしい。また、「宮古の前」「大君」「内裏ケ坪」の小字名が皇居の一局部の地名であるとも言われている。
 宮古は、昭和31年9月の田原本町、川東村、都村、平野村、多村の合体合併による「新田原本町」発足までの都村(富本、黒田、宮古、八尾、新町)の中心地であり、宮古地内に村役場が置かれ、飛鳥の時代、聖徳太子が斑鳩の里から飛鳥に通われた太子道に、「都村道路元標」が残されている。
 満々と水を貯える約2haの宮古溜池は宮古領約38 haの水田を吉野川分水とともに潤し、かっては西瓜、真桑瓜などの特産品を大阪や京都の市場に出荷する時代もあったが、現在は、一部花卉園芸植物、イチゴ等の栽培は見られるものの、多くは、兼業農家による稲作中心・一毛作の農村地帯といえる。
宮古地内の社寺は鏡作伊多神社、春日神社、浄蓮寺、西方寺、遠くからの拝観者も見られる薬師堂などがあり、最近建築された医療施設、国保中央病院、奈良県健康づくりセンターが宮古領西北部に位置する。
                               (参考 田原本町史)
    宮古池の上に浮かぶ 白亜の宮古公民館      国重文 宮古・薬師如来坐像 修復前

大字 (くろ) ()

 田原本町大字黒田(旧都村大字黒田)は、田原本町の北西に位置し、その隣は三宅町で、東側に京奈和自動車道が走り、一帯はのどかな田園風景が広がっています。
近鉄・田原本線の黒田駅があり大阪方面への通勤も便利です。南方面には国保中央病院、奈良県健康づくりセンターがあります。

所帯数は127戸(平成22年11月現在)です。

 黒田公民館は、昭和48年3月に建設され、自治会活動として老人会、婦人会、子供会、桃花会などが利用しています。
村の道路(聖徳太子が法隆寺から飛鳥寺へ通った太子道)沿いに考霊天皇を祀った“蘆戸神社”(黒田村の氏神)があります。

 
 この“置戸神社”の北方に“法楽寺”
があり「日本書紀」の記述などから考霊天皇の黒田置戸宮跡に聖徳太子により創建され、室町時代には25坊を数え、足利尊氏や徳川家康から寄進を受けるなど時勢を誇っていました。

 その東隣に「前方後円墳」の“黒田大塚古墳”があります。
古墳時代後期の三宅古墳群の一つです。推測される当時の大きさは、全長86m墳丘長70mで、周濠もあり埴輪・蓋形木製品が検出され、県史跡に指定されています。

 有名な“桃太郎”が生まれたのはこの地とされています。
何故なら吉備津彦命(桃太郎)は考霊天皇の皇子ですからこの宮で生まれ育ったと推測されます。
そこでこの地が「桃太郎生誕地」とされているのです。

このように黒田は歴史とロマンに満ち、
人々のぬくもりのあふれたところです。
法楽寺・本堂

黒田大塚古墳

明治21(1888) 黒田池築堤工事繪馬