平野 

平田 

冨本 

坂手北

金剛寺

新木

大字 秦楽寺

 

宮の森

 

坂手南

八条

東井上

矢部 

    本の歴史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会
たすき会
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田原本の村々

 

大字   (ひら) ()

 
 大字平田概要・歴史

 
大字平田は田原本町東部にあり、初瀬川左岸、古代の中ツ道(後の橘街道)の西側に位置する。
大字平田の地名は南北朝時代から見える郷名が初出。 南北朝時代~室町時代は興福寺領であった。
 
神社 春日神社  祭神 天児屋根命・健雷命・経津主命・比売大神
     正徳三年(1713)の(和州城下郡平田村寺社御改帳平田・木村信文書)に、鎮守社春日社
     桁行壱尺七寸梁行壱尺五寸板葺壱ケ所鳥居高さ七尺巾五尺玉垣高さ三尺五寸長さ五間     四尺
     境内社市杵島神社祭神市杵島姫命とある

寺院 浄土宗 旧善興寺(現平田会所・薬師堂)本尊「薬師如来坐像」鎌倉時代末
     正徳三年(1713)の「和州城下郡平田村寺社御改帳(平田・木村信文書)に「薬師堂桁行五間
     梁行弐間半 藁葺 一宇」 但台所堂之内二有之 境内 東西弐拾四間 南北拾間」
     除地 右開基暦知レ不申往古より有之候
     近年 この平田・薬師堂本尊「薬師如来坐像」は田原本御仏33ケ所巡礼第十四番札所と
     して、 田原本町観光協会事業として、説明板と石柱が建立された。
旧善興寺旧蔵の大般若経
     第192巻が現在滋賀県菅原神社にあり、「大和国森屋郷内平田善興寺経也」と記す。
                            
日本古写経現存目録大字平田の歴史
 大字 平田の歴史

弥生時代~古墳時代    
     村の西側、平田小字野行ほかに弥生・土師器・須恵器の散布地「平田遺跡」があり、
     
大字平田は約1800年以前から人々が住む歴史の永い
奈良時代         
     村の東側に古代の中ツ道(後の橘街道)
南北朝時代 
     貞和三年(1347) 城下郡の一条院方荘園として「平田四町五反」(興福寺段銭段米帳)
     応永六年(1399) 上年と同文
    応永三十四年(1427) 「城下郡定使幸徳‥平田郷一貫目納之」(一条院昭円講師段銭納状)
     天文十五年(1546) 「平田〈進官入地、四反反別五口五文宛〉」(十市郷諸荘進官米注文)
江戸時代  
     御番衆領⇒元和元年(1615) 郡山領 二割半無地高増政策で村高181石余⇒延宝七年
      (1679)幕府領⇒享和元年(1801)郡山領慶長郷帳寛文郷帳村高144石余287石余
      明和七年年(1770) 村状況 戸数18戸 人口81人(高持16・水呑1・堂1)
江戸時代から明治22年 村名 平田村 本村は江戸時代水田の40%が綿作、裏作に菜種栽培
明治以降
     明治15年(1882)村況田8町余・畑3町余宅地1町余 薮地5畝余 不定地1反余
     戸数28戸 人口193人 牝馬1 荷車4 物産 米117石余 麦26石余
     小麦20石余 大豆4石 蚕豆21石 菜種27石余 実綿3400斤
     明治22年(1889)  川東村大字平田村
     昭和31年(1956)から田原本町大字平田
               
※参考資料 田原本町史・角川日本地名・平凡社・奈良県の地名
春日神社 旧善興寺・薬師堂本尊 薬師如来座像

大字   (ひら) ()

 平野の概要

 大字平野の西は大字大網に隣接する田原本町の西部にあり、南と西には飛鳥川が流れる田園穀倉地帯である。
 大字平野小字三枚田他の飛鳥川右岸に平安時代の土師器・須恵器・瓦器・瓦質土器等の散布地があり、平安時代の集落があったようである。
 
大字平野(旧竹田南方)は、天保八年(1837)に竹田村より出郷。その後、嘉永五年(1852)により竹田村と旧竹田南方と諸々7ヶ条の取決め。明治初年(1868頃)竹田村より竹田南方(現大字平野)が分村(村高は358.268石)

 昭和31年まで、旧平野村
大字竹田南方であったが、昭和31年の田原本町の1町4村の合併時に旧平野村の名称を継承し大宇名を「大字平野」とした。旧平野村の地名は文禄四年から江戸時代にこの地を治めた平野氏による地名。明治43年から昭和31年まで旧平野村の役場が置かれていた。

 平野の神社

菅原神社 祭神 菅原道真
     
  大字平野(旧竹田南方)の成り立ちは大網村から氏神菅原神社が勧進されたものか。

 平野の歴史

平安時代  大字平野小字三枚田他の飛鳥川右岸に平安時代の集落があったようである。
安土桃山時代~江戸時代  平野藩
江戸時代 
      天保八年(1837) 「南方之義者竹田村より元文四年(1739)未十一月出郷二相成候事」
      天保十四年(1843) 往古より大網村の入百姓なので入百姓の分家・分身を南方移住取決
      嘉永五年(1852) 竹田村と旧竹田南方と諸々7ヶ条の取り決め
明治以降  
      明治初年(1868頃) 竹田村より竹田南方(現大字平野)が分村(村高は358,268石)
      明治43年(1910)~ 昭和31年まで旧平野村の役場が置かれていた
      昭和8年(1933)    平野村立小学校として3月31日設立
      昭和13年(1938)   平野村立小学校3月17日校舎新築落成
      昭和31年(1956)  旧平野村大字竹田南方であったが1町4村の合併時に旧平野村の
                  名称を継承し、大字名を「
大字平野」とした。
      昭和32年(1957)  大字平野 世帯数23 (農業18 ・ 商業2) 人口 108
      昭和62年(1987)  飛鳥川の改修工事完成

参考文献 ①田原本町史本文・資料編 ②田原本町の年中行事 ③日本地名大辞典29奈良県        ④日本歴史地名体系30奈良県の地名 ⑤史遊会資料
平野の氏神菅原神社 平野池の満開の櫻 旧平野村役

大字   (とん) (もと)

 大字 富本の概要

大字富本は田原本町の北西部にあり、西側に飛鳥川が北流し、北西は、三宅町、東に田原本町
大字宮古、南に大字西竹田、南西部に大字松本がある。 幹線道路は、集落の南西隅を県道14号線が通る、環濠集落の遺構が残る純農村集落である。

地名の富本は、川の水を堰止める堤の下「トメモト」が語源か(磯城郡史) あるいは「トミモト」のトミは十三で堤防を意味し、モトは地形的に下を意味するとも云う。(県史)

    歴 史

 集落の東側
小字宮廻を中心に古墳時代後期から平安時代の土師器・須恵器・瓦質土器、サヌカイト片の散布する富本遺跡があり、この時期の集落の存在が考えられる。 又、集落の南部に大和国条里制の方位に沿わない東西方向より北に20度振る古代からの斜行道路(仮称富本・保津・阪手・蔵堂道)の起点があり、この道路が近世まで、十市郡と城下郡の境を成す重要な地割であった。  
なお、桜井市・大兵主神社では、この斜行道路は、西は広陵町・箸尾から富本、保津、宮古、阪手、大安寺、蔵堂から桜井市・大田・巻ノ内を通って、大兵主神社への参詣道である。と伝えられている。


延喜式内社冨都神社 旧村社 祭神 登美屋彦命
 浄土宗 浄土寺(現 集会所)  
 開 基  不詳
 本 尊 阿弥陀如来立像」  江戸中期作
冨都神社・鳥居より拝殿を望む
冨都神社・本殿 浄土寺(現 集会所)前

大字 (あじ) ()

 
味間概要・歴史  

 
cは南部を橿原市十市町・太田市町、東を古代の中ツ道を挟んで櫻井市大西と接する田原本町南東部に位置する。 味間の南を寺川の支流 かがり川が流れる。

弥生時代
 かがり川の南岸小字北林を中心に、弥生・土師器・須恵器・瓦器等の土器の散布地があり、弥生時代から平安時代の集落があったようである

古墳時代 
 弥生時代から平安時代の集落があった場所を中心に、小字竹塚・小字節塚・小字大塚の字名があり、古墳か。       (田原本町文化財分布図)

飛鳥・奈良時代 
 味間の東を「中ツ道」が通っていて、藤原京から平城京の遷都や、大和盆地の南北への人と物資の交流に西の下ツ道・東の上ツ道と共にこの「中ツ道」 が利用され、「中ツ道」の南端が 橘寺に至る為、後に「橘街道」 と呼ばれるようになった。
 
平安時代
 延久二年(1070) 味間荘 十市郡東郷味間荘十町四十歩とある。(興福寺雑役免帳)

鎌倉時代
 貞応二年(1223) 東塔供田結番注文に荘内供田は十市郡東郷十九条一里他にあり(三箇院家抄) 弘長二年(1262) この頃、朝廷の諸司寮の支配権は有名無実(興福寺旧蔵弘長二年三十三過本)

南北朝時代  
 貞和三年(1347) 一条院門跡領として味間荘〈号北今南荘〉 三十町八反一〇八歩(興福寺段銭段米帳)
至徳元年(1384) 長川流流鏑馬日記に「味間 〈十五丁五反小〉(一条院良昭維摩会段米催状)
 〃 〃  〃   補厳寺 十市氏の菩提寺として了堂真覚が開山以前は、律宗の光蓮寺
補厳寺は15世紀後半~16世紀後半にかけて、寺領約45町歩、末寺、末々寺230余寺を有する大和屈指の曹洞宗の禅寺
至徳三年(1386) 「味間殿」とあり、春日若宮祭に流鏑馬頭役を勤仕する願主人で国民十市氏の一族で十市氏の代官として活躍。

室町時代
 応永六年(1399) 一条院門跡領として味間荘〈号北今南荘〉三十町八反一〇八歩(興福寺段銭段米帳) 能・観世流の大成者世阿弥(1363~1443)が参学か         
この頃後に  世阿弥[至翁禅門]と妻寿椿「寿椿禅尼」が補厳寺に田地各一段を寄進
明応七年(1498) 補厳寺の財産目録である「補厳寺納帳」第一冊明応納帳、
この後、 「補厳寺納帳」第二冊/第三冊(年号記載なし) 世阿弥[至翁禅門]と妻寿椿「寿椿禅尼」の名が見える。
元亀元年(1570) 「味間百姓」の東塔供僧見参料・年貢の件で国民十市氏に命ず
元亀三年(1572)  補厳寺の財産目録である 「補厳寺納帳」第四冊
天正八年(1580) 織田信長へ「大乗院家御知行分帳」差出に「十市郷味間領9反・・」
江戸時代
慶長年間(1596-1615) 豊臣家家臣 大野治長領 「慶長郷帳」 あしま村 村高 1,005石
元和元年(1615) 幕府領、 元和五年(1619) 伊勢・津藩領、 寛文九年(1669) 伊勢・久居藩領、          「寛文郷帳」 村高 1,005石、「元禄郷帳」「天保郷帳ともには930石      
寛永五年(1628) 出屋敷村を分村   江戸時代 水田の30~50%が綿作、裏作に菜種栽培
安政五年(1857) 補厳寺本堂全焼                        

明治時代
明治9年(1882) 出屋敷村を合併                                      
明治15年頃(1876) 味間村状況  税地 田70町余・畑1町余・宅地5町余・戸数109戸・人口562人、牝牛5、人力車1、荷車16、物産米770石、
明治22年から多村大字味間 大正11年大和鉄道開通 味間駅開業 昭和19年廃線
大正末期から昭和初期西瓜栽培盛   昭和31年から田原本町大字味間

須賀神社 祭神 須佐男命
勧進年代・由緒は明らかでないが、江戸時代には牛頭天王社と云われたことから、他の牛頭天王系神社のように、素佐男命の神威で疫病から味間の村民を守る為に勧進されたものと思われる。境内摂社には 1. 味間神社(元味間見社)  祭神 阿志間美命 味間村の祖神
須賀神社改築造営 昭和3年(1928) 境内地を680坪に拡張し、新たに、本殿を新築し、拝殿は、吉野神宮(明治25年・1892建築)の建物を移築、昭和12年(1937) 須賀神社改築造営工事は竣工した。    ※ 本殿、拝殿建物については、須賀神社境内に説明板がありす。
八幡神社 明治19年(1886)字クボンドより、須賀神社境内に遷座。大正4年(1915)境内社として合併。昭和3年(1928) 須賀神社改築造営時に分霊し、この分霊を元の字クボンドの社地で祭祀したのが、現在の味間790番地・八幡宮である。

須賀神社・拝殿と透塀          須賀神社 本殿             釈迦如来座像
             補厳寺納帳                釈迦如来立像
浄土宗 西 福 寺  本尊 釈迦如来立像 室町時代 前期 像高121.8㎝
薬師如来坐像 室町時代前期 像高38.6㎝ 弘法大師坐像 室町時代後期 像高29.0㎝   
開基は定かではないが、西福寺の西隣、小字「堂垣内」に在った「寺」と、元、須賀神社内に在った真言宗・医王寺の薬師堂を廃仏毀釈により、西福寺に移されたと云われている。
曹洞宗 宝陀山 補 厳 寺  補厳寺は至徳元年(1384)に了堂真覚禅師の創建      
世阿弥は二代竹窓智厳禅師に師事し、禅宗に帰依し、「至翁禅門」妻「寿椿」田地各一反を寄進。

大字 阪手(さかて)(きた)

                                            阪手池より生涯学習センターを望む
大字阪手北は古くは萬葉集 巻13 3230で

 「幣帛(
みてぐら)を 奈良より出でて 水(みず)蓼(たで) 穂積(ほづみ)に至り 鳥網(となみ)張る坂手(さかて)を過ぎ 石(いは)走(はし)る神南備山(かむなびやま)に 朝宮に 仕(つか)え奉(まつ)りて吉野へと 入り坐(ま)す見れば 古(いにしへ)思ほゆ」

と詠われ、また古代から交通(下ツ道や保津・阪手道)の要衝であり、古代・中世初めには役所的な遺跡が存在し、中世には「桧物(ひもの)」を売るサカテ座が知られるなど商業の発達した地であった。
ここでは、農村集落としての特徴と重要な年中行事を紹介しよう。
良盆地には条里制、環濠集落そして多くの溜池が分布しているが、大字阪手北を鳥瞰してみると、それらが残っており依然として農村集落としての形態が顕著に見られる。
次に阪手北施設の整備が進み、町のランドマーク的な存在の「青垣生涯学習センター」内には、弥生の里ホール・図書館、そして唐古・鍵考古学ミュージアムなどが設置され、大勢の利用者が訪れ、一昔前四十戸余の農村集落の面影が薄くなった。       

阪手北・航空写真(昭和23(1948)年9月1日撮影)

大字 剛寺(こんごうじ)

    
 
金剛寺の概要

 大字金剛寺は、西は広陵町に隣接する田原本町の西部にあり、西には曽我川東には飛川
に挟まれた田園穀倉地帯であり、又、大字金剛寺の歴史は古く、大字金剛寺北側小字堀田
他から約1400年前の古墳時代後期の集落跡から竪穴住居跡がみつかり、古くからこの周辺に
人々が住んでいたことがわかる。地名は当地に在った寺名による、南北朝時代に初出、環濠
集落の遺構も残る。

 
社寺 禰都波能売神社 祭神 彌都波能売神 菅原道真 菅野神社姫命 
     江戸時代社名は三十八神社 金正寺 浄土真宗本願寺派 
     本尊 阿弥陀如来立像(像高36.5㎝) 客仏 阿弥陀如来立像(像高96.2 cm)

    
南北朝時代

金剛寺の歴史


古墳時代   
     小字堀田他に後期の集落があり、竪穴住居に人々が住んでいた。
鎌倉時代   
     地侍金剛寺氏は長河庄執行職・箸尾氏のもとで長河庄公文を務める。
南北朝時代  
     正平七年(1352) 「長河庄公文昇蓮」は「金剛寺」と思われる。
室町時代   
     至徳元年(1384)「長川流鏑馬日記」に「金剛寺殿」と見え春日若宮祭に流鏑馬頭
     役の願主人。
     応永二十七年(1420)一乗院門跡坊人で国民。
         門跡から長河荘公文職同荘で計23町5反給与
     文正元年(1466) 畠山義就と金剛寺氏と抗争
     文明十九年(1489)箸尾氏金剛寺氏の被官が山城国争い
     永禄五年(1562) 「伴堂・金剛寺両城破却」
江戸時代   
     郡山藩領 村高 元禄郷帳(1688~) 天保郷帳(1830~)とも松本村枝郷で480石余
     当村は綿作地帯で水田の30~50%綿作、裏作に菜種栽培
     元禄年間(1688~)以前 松本村から分村成立 
     享保九年(1724)家数44軒(数200人(男90、女95)
明治時代   
     明治初年 出屋敷(高岡村)消滅
     明治15年頃(1876) 村状況 税地 田24町余・畑6町余・宅地1町余・藪地1反余
     戸数33戸人口185人(男94、女104)・僧2)牝牛3、荷車4、
     物産 米296石余・麦114石余・小麦16石余・大豆7石余・
     蚕豆37石余・菜種20石・草綿3,000斤・草綿3,000斤・葉煙草2000斤
社寺   
     三十八神社・八坂神祠・野神神祠・真宗金正寺
     明治18年(1879)曽我川氾濫当村内に出来た水溜を利用して金剛寺・松本の共有     
池を築造
     明治22年(1889)から平野村大字金剛寺   
     昭和31(1956)年から田原本町大字金剛寺
         彌都波能売神社              金正寺 山門・本堂       金正寺・阿弥陀如来立像・南北朝時代
                                              

田原本町 町・村の歴史   大字 () ()

 

 新木の概要

新木の地名の由来は、「和名抄」十市郡飫富(おふ)郷の飫富を饒と書き、ニギと読み新木の字にあてたともいわれています。

 日本の書記に「天照大神を大和笠縫巴に祀る」という記事があり、その伝承地として村の西の方に、「カサヌキさん」として今も祀られています。

 奈良時代に整備された条里制が残っており、道路もカギ型になっています。
その中で、村の南側には斜めの水路がありますが、聖徳太子が飛鳥から法隆寺まで通った「太子道(筋交路)」の跡でもあります。また、南の方に「大鳥居」という名が残っていて、多神社の四鳥居の一つ北の大鳥居がありました。中世に造られたと思われる環濠集落の遺構も残っています。 

中世の時代には、鳥羽上皇御願の春日社東塔の供料所でありましたが、後に興福寺寺門領となりました。

江戸時代は幕府郡山藩・旗本佐藤氏の相給で、それぞれ領主ごとに村役人がいて共同で村の運営にあたっていました。当地方は綿作地域で、当時水田での綿作が約40%あり、裏作として菜種が栽培されていました。元禄13年(1700年)には15戸でしたが、明治12年(1879年)には村民の土地提供と労働奉仕によって新木池が築造され、当時26戸があったと記録されています。

一行寺 春日大社
浄土真宗 一行寺 氏神 春日大社

                                              

 
   

田原本町 町・村の歴史 大字 (じん) (らく) ()


 秦楽寺と秦氏の歴史の村

秦楽寺の概要    氏神 春日神社 境内社 笠縫神

大字秦楽寺は、田原本町の南部にあり、東には寺川、西近くには飛鳥川が流れる田園地帯であり、大字の東に近鉄橿原線があり、秦楽寺の東、寺川沿いに中街道(下ツ道)が通る。 大字秦楽寺の歴史は渡来系氏族秦氏と、秦楽寺を抜きでは語れない。公共施設に奈良県立教育研究所

秦楽寺の歴史  安元二年(1176)に城下郡西郷・十市郡西郷の内「秦楽寺にて米七合・」が地名の初出大字秦楽寺南部から大字宮の森にかけて、秦楽寺遺跡があり、縄文時代・晩期に人々が住み始め、古墳時代中期~後期中世の遺物(縄文・土師器・須恵器・瓦器)と掘立柱建物、溝、井戸の遺構が検出され、集落が形成 又、秦楽寺池の護岸工事に伴う秦楽寺遺跡第3次発掘調査(2008年) 第4次発掘調査(2009年)が行われ、石製玉類(滑石製臼玉・管玉・勾玉・有孔円板、琥珀製小玉)の製品及び未製品や、滑石・碧玉、緑色凝灰岩・琥珀・水晶・瑪瑙の原石や剥片が出土し、古墳時代中期から後期の田原本町では初めての玉造遺跡が見つかった。これら原石の搬入元及び玉類製品の供給先、また、製作技術集団の研究解明が今後の研究課題 

秦楽寺   真言律宗 高日山 浄土院 
大字秦楽寺の周辺は「秦之庄」と云われ、秦河勝が大化三年(647)に創建した(秦楽寺略縁起)と伝えられる秦楽寺があり、百済国から聖徳太子に献上された千手観音立像を秦河勝に下賜されたと伝えられていて、現在は、平安時代(11c)の十一面千手観世音菩薩立像が安置されている。

平安時代  
この頃より、室町時代まで、この地域は興福寺の荘園となり、氏神春日神社が祭祀される。大同二年(807)唐から帰国した
弘法大師空海がこの秦楽寺で「三教指帰」を表し、境内に「梵字のアの字形の阿字池」を築造したと伝えられている。 
この頃、秦楽寺、天台・真言両宗の寺坊があり、顕教・密教の霊場となる
11世紀末~12世紀初頭頃 秦楽寺池周辺に集落。 井戸、土師器、瓦器、羽釜が出土

室町時代   
秦楽寺の門前に「金春屋敷」跡の伝承がある。これは、世阿弥の『花伝書』に「此門前(秦楽寺)ニ金春有ニ屋敷一、其内ニ天照大神ノ御霊八咫鏡陰ヲ移シ給ト云伝也。」 とある。
元亀元年(1570)秦楽寺城 松永久秀に攻められ、秦楽寺灰燼に帰す。

江戸時代  
大字秦楽寺に伝わる江戸時代の年号の記載のない秦楽寺絵図には秦楽寺池が描かれて無く、享保十四年(1729)に溜池新設請願書の古文書があり、この秦楽寺絵図は、田原本町内に残る絵図の多くが元禄十七年(1704)に描かれ、この秦楽寺絵図も、此の頃の絵図と思われ、秦楽寺も「九秦観音堂」と記載され、又「九秦観音堂」の東側に「九秦阿弥陀堂屋敷」とある大字九品寺もこの頃、秦楽寺領で寺川に「浜」と中街道の商家の様子も描かれている。

秦楽寺旧絵図 秦楽寺旧地図
秦楽寺絵図
秦楽寺旧絵図

 田原本町 町・村の歴史   大字 (おお)


 多地区の概要

 多地区は、橿原市に隣接する田原本町の最南端にあり、東には寺川、西には飛鳥川に囲まれた田園穀倉地帯であり、日本最古の神社として知られている多神社がある。 その多神社の社伝によると、神武天皇の皇子八井耳命がこの地に来られ天神地衹を祀るという由緒を持ち平安時代の延喜式に社名が載る式内でも屈指の古社であり、そこに住む地域住民は古い文化を継承している。

 多地区の歴史は大変古く、発掘・調査された多遺跡によると、奈良盆地のほぼ中央、標高55mの沖積地の微高地上に存在する弥生時代から中世に至る時期の大規模な遺跡である。さらに多遺跡は、弥生時代の拠点的な環濠集落で、環濠に囲まれる範囲は、長軸350 m 、短軸300mと推定されている。

これまでに24次に及ぶ調査が実施され、弥生土器、木器、銅剣などが出土している。出土品の一部は多神社の展示館に展示されている。そして 環濠はコンクリート水路になりながらも現役であり、集落の周囲をとりまいて中世からの環濠集落の姿はほぼ保たれている。

 飛鳥と斑鳩を最短で結んだ古代の街道である太子道(筋違道)が集落の西側を南北に通っているのも多地区の特筆の一つといえる。
多地区の面積 約74.6町(0.74k㎡)

多地区の神社 
多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)(多神社) 
小杜神社
(こもりじんじゃ)
 
皇子神命神社(みこのかみのみこと)(三ノ宮)
姫皇子命神社(ひめのみこのみこと)(村社 氏神) 
       
多地区の寺院 
融通念仏宗 光明山 念仏寺
真宗 興正派 常光寺           

多地区の観音像  
田原本御佛三十三ケ所 第二十三番 多 観音堂  第二十四番 念仏寺

集落環濠の現状 太子道
集落環濠の現状    太子道(筋違道)集落の西側を通る

田原本町 町・村の歴史   大字 (みやの) (もり)


 宮森の概要

大字宮森は、田原本町の南部にあり、東には寺川、西近くには飛鳥川が流れる田園穀倉地帯であり、大字北東に近鉄橿原線・笠縫駅があり、宮森の東、寺川沿いに中街道(下ツ道)が通る。

主な公共施設として、奈良県立教育研究所、奈良県立高等養護学校、奈良県心身障害者福祉センター、JAなら県多支店がある。

宮森の歴史 
宮森には、縄文時代・晩期に人々が住み始め、小字亀田を中心に、縄文時代・晩期、古墳時代中期から後期、中世の遺物(縄文・土師器・須恵器・瓦器)と掘立柱建物、溝、井戸の遺構が検出され、集落が形成されていたと思われる。
地名の宮森は宮守で宮部造の祖神・天壁立命の子・天背男命を祭祀していた事に由来するという。(磯城郡誌)

平安時代 
永仁六年(1298)成立の「西大寺三宝領田園目録」に「十市郡西郷一里廿坪一段 自西段三段目字宮ノモリ」とある。

室町時代にも、町指定 味間・補厳寺納帖に、同寺領田に「宮森領之分」とあり、「宮森彦五郎」の名がある.

江戸時代から明治22年の村名は十市郡「宮ノ森村」 。村高は「慶長郷帳」「寛文郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」では364石余。 江戸時代、当村は綿作地帯で、水田の30~50%が綿作で裏作に菜種を栽培。

明治15年(1882)頃 田23町余・畑2町余・宅地2町余・人口253人 物産は、米350石・麦50石・小麦15石・大豆10石。

明治22年(1889) 多村宮森⇒昭和31年から 田原本町宮森 町村合併まで、宮森に多村役場があった。昭和40年代後半に、宮森と新木にまたがり、笠縫団地ができる。

天神社 旧指定村社 祭神 少彦名(すくなひこな)(みこと) 「(みや)()(みやつこ)(おや)(がみ)(あめの)背男(せのおの)(みこと)を祭る」の伝承がある。

正法寺 上宮山 真宗大谷派 享保三年(1718) 開基 釈了運 本堂 文化八年(1811)上棟平成23年11月3日 宗祖親鸞聖人750回忌、正法寺創立300年、住職継承法要

聖徳太子 奉讃法要(宮森のお太子さん)太子の亡くなられた三月二十二日 毎年法要しお餅まきの行事が行っている,

正法寺 天神社
正法寺 天神社

    田原本町の町・村の歴史   大字 (かぎ)

 
 〒636-0223 奈良県磯城郡田原本町大字

大字「鍵」の概要            大和国城下郡法貴寺郷 ⇒ 鍵村 ⇒ 川東村

 田原本町大字「鍵」の歴史は、今から約2400年前の弥生時代前期、唐古・鍵遺跡への水稲栽培の伝来から始まる。
大陸から北部九州に伝来した水稲稲作は、瀬戸内海を通り大阪湾・大和川を遡り、大和で最初に定着したのがこの地、鍵・唐古の村であった。唐古・鍵遺跡は約600年間に亘り近畿地方最大の拠点集落として発展し、その後の卑弥呼・壱与の邪馬台国となる纏向遺跡(桜井)に繋がり、初期大和政権誕生の礎となった。唐古・鍵遺跡のシンボル復元「楼閣」の元絵、楼閣の繪画土器は、平成3年、鍵地区にある。
 田原本町立北小学校プール建設に伴う調査で発見された。平成11年に国の史跡に指定。同じく平成11年の第74次調査では、床面積80㎡以上の巨大な弥生時代最古の高床建物跡が見付かり、高度な建築技術が確認された。また、青銅器鋳造炉などの工房跡地も発見され、銅鐸の主要な製造地であったことが分かっている。
唐古・鍵遺跡の面積は約42万㎡とされているが、集落内住居跡の約7割は鍵地区に属する。

飛鳥・奈良時代には、鍵地区の西側を藤原京から平城京へと幅約43mの「下ツ道」が通る交通の要所で、この「下ツ道」は大和国条里制の中心基準線となり、更に中世以降の「中街道」として、吉野、大峰山、高野山、熊野の信仰の道や、人々の交易の道へと発展していった。

平安時代(999年頃)には、紫式部の夫、藤原宜孝の荘園「田中莊」が鍵・唐古周辺にあり、豊かな水田が広がっていた。元和元年(1615)は郡山藩領、延宝7年(1679)幕府領、延宝8年(1680)甲斐甲府藩領、宝永元年(1704)から再び幕府領であった。江戸時代には、川港として開かれた寺川の「今里の浜」と、商業の町田原本の中間の街道にあることから商業も活発で、天保14年(1843)の記録では綿商、糸商、油屋、鍋釜、鍬商、傘屋、運送荷次、質屋等13軒が、明治3年には27軒が在ったとされる。明治22年、それまでの「鍵村」から川東村「大字鍵」となった。このように「鍵」の地は、悠久の歴史が脈々と受け継がれた、古代ロマンに満ち溢れる地域である。

鍵の氏神は「八坂神社」で、本殿前にある左側の石燈籠は寛永6年(1666)、右側の石燈籠は延宝5年1679)に造立されている。また境内には薬師堂があり、平安時代後期の地蔵菩薩立像と江戸時代の普賢菩薩坐像が安置されている。この八坂神社では、昭和58年に国の無形文化財に指定され野神行事で知れる「蛇巻き行事」が、「鍵」の伝統祭礼行事として毎年6月の第一日曜に行われている。これは、「鍵」の男児の成人(元服)と農業の五穀豊穣を願う祭事である。

公共施設としては、田原本町立北幼稚園、同北小学校、同北中学校、駐在所がある。また、浄土真宗本願寺派万行寺がある。住戸数は昭和31年度46戸であったが、平成23年現在110戸となっている。

  普賢菩薩坐像 地藏菩薩立像
 
蛇巻き行事  航空写真
 普賢菩薩坐  地蔵菩薩立像  蛇巻き行事  唐古・鍵遺跡航空写真
   

                                                                   

 
   

田原本町町・村の歴史  大字 阪手(さかて)(みなみ)

 

阪手南自治会「現在・過去・未来」

 阪手南自治会は東西約700m、南北約600mのほぼ方形で、面積は約0.4k㎡であり、その戸数は240戸を超えます。農村としての歴史が長い本自治会も、住宅開発が進み、風景も一変しました。
町史によれば、遅くとも奈良時代にはこの地の開発が進み、小字地名にも名残が多数あり、町内でも指折りの条里村落として知られています。中世以降は環濠をめぐらせた集落でもありました。

阪手地域は、平安から室町時代には、興福寺大乗院領荘園であり、安土・桃山時代には、武士支配下の「坂手村」が成立し、江戸時代になって暫く後に幕府領となっています。明治時代になり「阪手南村」として奈良府に属し、明治22年より川東村阪手、昭和31年より現在の田原本町に属しています。

 歴史的遺産としては、須佐之男神社の沿革は不明ですが、江戸時代以前よりあったことは確かで境内にある観音堂は江戸時代には、村内の別の場所から境内に移築され、大和盆地札所の三十二番とされます。本尊は平安初期の作です。
境内にある「おかげ灯籠」は江戸末期の「おかげ参り」「おかげ踊り」の名残であり。先祖たちが偲ばれます。
西願寺は江戸中期ごろには本村にあったとされます、
農村から農村風景を維持した住宅地へと変化を遂げる本自治会は、住民全体で原風景の維持・発展と、すべての住民が安心して生活できる快適な環境づくりを目指しています。

  観音堂    条里の名残
       須佐之男神社境内の観音堂と「おかげ灯籠」  条理の名残、三十一(坪)にある阪手保育園からの遠景

 阪手南と大和の条理制

 阪手南の集落は奈良時代に始まった条理制の形態が良く残る集落で、大和の条理制の基準線の下ツ道が阪手南の西側を通り、阪手南集落の面積36町歩も、奈良時代に始まった条理制の一里(一村)と同じで、「城下郡路東十七条一里」に属する。

 

田原本町 町・村の歴史   大字  条

八条村の歴史
                                              
H22.12.16
 江戸時代の初め、八条村から阿部田村が分村する。
明治八年(1875)に両村合村し、千代村となる。明治二十二年(1889)に多村の大字千代となる
昭和三十一年(1956)に田原本町の大字になる。 
 八条村とは、奈良時代の条里制で城下郡路東十八条一里に立地したことから、十八条から「十」を略した村名である。 また、天平十九年(747)の大安寺の記録によれば、当地に十市郡千代郷があり、神社の荘園であった 。 村屋神社の記録によれば、当地に千代神社があったが、天長年間(830年頃)の洪水により社殿が大安寺領に漂着し、そこで祀つたとある。しかし、地元の崇敬が厚く、大正九年(1920)には、当地の春日神社の境内社として祭祀を行なっている。 当地には古くから勝楽寺(
しょうらくじ)があって明治七年(1874)に廃寺になったが、その由緒のため、明治三十一年(1898)に添上郡にあった本光明寺を勝楽寺跡に移して再興した。本光明寺の十一面観音立像は、平安時代中期の作で国・重要文化財。  
明善寺は、永正十年(1513)、僧空念の開基創立と伝える。  妙称寺は、天文元年(1532)、僧達念の開基創立と伝える。極楽寺は、近在の大字の墓郷を管理した墓寺であり、本尊の阿弥陀如来立像は十三世紀の作。

宝暦三年(1753)、当八条村ほか八村が年貢の減免を求めて一揆をおこしたが、幕府の弾圧を受けた。
当村庄屋山口与十郎はこの時、伊豆の新島に流されたが、その子庄右衛門が新島に渡って父を助け、安永七年(1778)に赦免されて帰郷した。
庄右衛門の事跡は安永八年刊行の八条の氏神 春日神社 「八条ものがたり」に詳しい。
八条航空写真
春日大社
春日大社 昭和23(1948)の八条村(米軍撮影)

田原本町 町・村の歴史   大字 (ひがし) () ()


 東井上の歴史

我が郷土には弥生の時代からそれらしい集落があったようで、東井上遺跡(字サイキほか)より弥生時代から室町時代にかけての堅穴住居・土坑・大溝跡や弥生土器・
土師(ハジ)()須恵(スエ)()瓦器(カワラケ)(ウス)(ダマ)人面(ジンメン)墨書(ボクショ)土器(ドキ)・鋳物関連遺物・土馬・銭貨等の遺物が発掘されている。 また、鎌倉時代の承久2年(1220)から歴仁元年(1238)の古文書に井上庄の名称が見受けられ、春日神社の荘園だったらしい。やがて戦国の世も過ぎ、豊臣秀吉が1582年から行った太閤検地の慶長郷帳には「稲井村」とあり、その後の文禄検地帳には「いねい村」と記されている。

 井上村は、江戸時代の元和元年(1615)郡山藩領となり、のち村高を分けて東西の2村に分離し、初瀬川の右岸(東側)が東井上村、左岸(西側)が東井上村の枝郷としての西井上村となって、今日に至っている。 この井上(イネ)との呼び方は、もとは「イノヘ」と読み、井は井戸または出泉であり、ノは助詞で上は「ヘ」と読み側や近くを意味する事から、井上村は水辺の村あるいは生活に必要な綺麗な水の涌く井戸の側の村と考えられ、母・子脱落で「イネ」に転化したと言われている。

 東井上の概要

 東井上は50世帯程度の集落で、大字の西側を流れる初瀬川に架かる天王橋が玄関口である。
橋の麓には須佐之男神社があり、村の鎮守として須佐之男命と、
(イツ)()(シマ)姫(弁天さん)を祭祀しており、橋を渡って東へ行くと公民館の直ぐ東側に市杵嶋姫社跡があって、さらに東へまっ直ぐ進み新道へ突き当たった少し右側(南側)には大日塚がある。 この大日塚(墓・墓地)からも室町から江戸時代のものと思われる宝篋印塔(ホウキョウイントウ)・瓦・土師器・瓦器・銭貨が発掘されている。

 大字の特産物は切花でバラや冷凍球根による水仙・イリス・ユリ等の促成栽培が盛んに行われているが、後継者不足が深刻である。

須佐之男神社 市杵嶋姫神社
      村の鎮守・須佐之男神社       市杵嶋姫社跡

田原本町 町・村の歴史    大字 () ()

大字矢部の概要

飛鳥川左岸に位置し、地名の由来は古代部族の矢作部に由来する(奈良県史)と一般的には云うが、当村の矢部は、康平四年(1061)藤原辰文の現矢部の私領と城上郡・夜部の東大寺・尼仏妙領と相博(交換)により元領地の城上郡・夜部の地名を継承して夜部荘(矢部村)となる。環濠集落の遺構が残る。

 弥生時代になり、小字コシヅカ・越木塚他にかけて弥生~近世の集落に人々が住み始めた「矢部遺跡」が在り、昭和55年国道24号バイパス建設発掘調査で4世紀の古墳時代前期から7世紀の飛鳥時代にかけての方形周溝墓群等など墓地と集落跡が見つかり、特に、弥生時代に始まった方形周溝墓が矢部遺跡では4世紀の古墳時代前期から7世紀の飛鳥時代にかけて造営された。

 この古墳時代の6世紀後半になって矢部の南部に団栗山古墳が築造される。団栗山古墳は現状では約30mの円墳状であるが前方後円墳の可能性もある。昭和12年(1937)県道建設の土取工事中に旗竿装着器(蛇行状鉄器)・単龍環頭太刀・馬具金具・須恵器等の遺物が発見され、これら遺物から渡来系人物の墓の可能性も考えられ、多(太)安万侶の祖父・多菰敷の妻が百済人であったと云う事にも関わるかもしれない。団栗山古墳の北西にも古墳があり、削平された古墳の存在も考えられる。 又、矢部旧池周辺にも弥生~鎌倉時代の土器の散布地「矢部南遺跡」や大字矢部から大字宮森にかけて古墳時代後期~鎌倉時代の遺物散布地があり、この時期の大規模集落の存在が考えられる。

 平安時代には藤原辰文の私領を康平四年(1061)に城上郡・夜部の東大寺・尼仏妙領と相博(交換)以後東大寺領となり後、鎌倉時代の嘉禄三年(1227)興福寺西金堂領・高野山寂静院領となり、室町時代の貞和三年(1347)興福寺・一乗院領となる。

 江戸時代に入り、旗本秋元氏・松平氏の相給 松平氏⇒相模甘縄藩領(寛永二年・1625)⇒郡山藩領(寛永十六年・1639)  旗本秋元氏領⇒相模甘縄藩領(寛永十六年・163)  元禄十六年(1703)から郡山藩領と上総大喜多領の相給となり明治を迎える。
明治22年(1889)多村大字矢部    昭和31年(1956)田原本町大字矢部

杵都岐神社 杵都岐神社 毘沙門堂
杵都岐神社  杵都岐神社・本殿 観音堂・毘沙門堂
安楽寺 願立寺
安楽寺 願立寺
                 
大字矢部の社寺

杵都岐神社 祭神 素盞鳴命・大名持命
牛頭天王・弁財天(貞享三年・1686/享保九年1724)境内地一反七畝余(約510坪・1683㎡)
境内の観音堂・毘沙門堂は江戸時代の宮寺か
境内社 八王子神社 祭神 菅野姫命  榎木神社 祭神 市杵島姫命  愛宕社 祭神 火結命

安楽寺    融通念仏宗 山号は光照山 本尊阿弥陀如来坐像(木造  像高42.7㎝)
江戸時代前期  延宝初年(1673)頃 融通念仏宗に改宗 本堂 安永八年(1779)再建
山門・鐘楼は近年改築 宗祖良忍上人坐像(木造 像高85.0 cm・室町時代) 
国重文安楽寺・絹本著色融通念仏縁起図(縦153.0 cm・横80.1 cm南北朝時代) 
宗祖良忍上人(1073-1132)の行状・念仏功徳を六景を大和絵手法で描く。

願立寺   真宗大谷派本尊阿弥陀如来立像(木造像高52.2 cm)江戸時代中期作 本堂方三間 庫裏 門
開基 寛永十二年(1635) 僧善立 寺勢 境内59坪 檀徒122人(明治12年・1879頃)

観音堂   杵都岐神社境内 本尊 十一面観音菩薩立像(木造像高168.4 cm)平安時代中期
元観音寺 江戸時代観音霊場・大和国三十三所第九番礼所 明治七年(1874)廃寺

毘沙門堂  杵都岐神社境内 本尊 毘沙門天像(木造 像高41.0cm)江戸時代後期 十一面観音菩薩立像の眷属

伝統祭禮行事 矢部綱掛

伝統祭禮行事 矢部綱掛は、米や麦が豊作であり、又、邪悪が村に入らないよう祈願するお祭りで江戸時代から続いているようです。戦前は、地主がお祭りしていましたが、戦後(昭和21年・1946)は村中の人が、隣組単位でお祭りをしています。毎年5月4日当番の隣組全員で、綱と各戸に配る牛の版画と鍬鋤の模型を作ります。5月5日午前、当屋の家に隣組全員が集まり、自治会役員、僧侶が参加して会食をします。その後、一同は綱を担いで伊勢音頭を囃しながら村中を練り歩き、過去1年間に婿嫁を迎えた家、自治会役員宅、昨年と次年度の当屋宅等に綱を持ち込んで祝い、家の人を綱で捲きます。その後、村の南入口小字ツナカケにある木に綱を掛け、稲苗・御神酒・牛の版画・模型の唐鋤・馬鍬・鍬・鋤を、竹籠に入れてお供えし、僧侶の読経があり、終了後、牛の版画と鍬鋤の模型を、各家庭に配ります。

大字矢部の歴史

弥生~鎌倉時代
矢部南遺跡」矢部旧池周辺に弥生~鎌倉時代の土器の散布地大字矢部から大字宮森にかけて東西約600m×南北約500mの範囲に古墳時代後期~鎌倉時代の遺物散布地。この時期の大規模集落の存在。

古墳時代

矢部遺跡 小字ゴシヅカ・越木塚他にかけての東西約450m×南北約450mの範囲に弥生~近世の遺物散布地
「矢部遺跡」が在り、昭和55年の国道24号バイパス道路建設の工事に伴う発掘調査で4世紀の古墳時代前期から7世紀の飛鳥時代にかけての方形周溝墓群・大溝など墓地と集落跡が見つかり、弥生・土師器・須恵器・陶磁器・木製品が出土している。特に、弥生時代に始まった方形周溝墓が矢部遺跡では4世紀の古墳時代前期から7世紀の飛鳥時代にかけて造営された。

団栗山古墳

 この古墳時代後期の6世紀後半になって矢部の南部に築造される。団栗山古墳は現状では約30mの円墳状であるが前方後円墳の可能性もある。昭和12年(1937)県道建設の土取工事中に旗竿装着器(蛇行状鉄器)・単龍環頭太刀・馬具金具・須恵器等の遺物が発見され、これら遺物から渡来系人物の墓の可能性も考えられ、多(太)安万侶の祖父・多菰敷の妻が百済人であったと云う事にも関わるかもしれない。団栗山古墳の北西にも古墳があり、削平された古墳の存在も考えられる。

平安時代   康平四年(1061) 藤原辰文の私領を城上郡・夜部の東大寺・尼仏妙領と相博(交換)以後、東大寺負所夜部荘と、東大寺領となる。

鎌倉時代   嘉禄三年(1227)  興福寺西金堂領・高野山寂静院領となり、
室町時代   貞和三年(1347)  興福寺・一乗院領となる。

江戸時代   旗本秋元氏・松平氏の相給 松平氏⇒相模甘縄藩領(寛永二年・1625)⇒郡山藩領
(寛永十六年・1639)旗本秋元氏領⇒相模甘縄藩領(寛永十六年・1639)  元禄十六年(1703)から郡山藩領と上総大喜多領の相給となり明治を迎える。

    村高 慶長郷帳(1596~) 872石余の内、秋元氏知行500石・松平氏372石余「寛文郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」とも870石余。なお「旧高旧領」では郡山藩領371石余・上総大喜多領498石余。 当村は綿作地域で、水田の30~50%あり綿作で、裏作として菜種が栽培されていた。当地の小林権九郎・七兵衛父子が改良した権九郎綿・七兵衛綿が良質で、摂津・河内地方で多く栽培。

明治以降   明治15年(1882) 村況 税地田58町余・畑2町余・宅地3町余林地3畝余 戸数105戸 人口499人牝牛1・牝馬2・人力車1・荷車6・物産米862石・麦105石・小麦150石

明治22年(1889)多村大字矢部昭和31年(1956)田原本町大字矢部
昭和59年(1984)国道24号バイパス道路開通

古墳出土品 冠頭太刀 観音堂
団栗山古墳出土 蛇行状鉄器   単龍環頭太刀  観音堂延宝九年(1681)
矢部網掛け 網掛け

伝統祭禮行事  矢部綱掛
 

 参考文献①田原本町史本文・資料編 ②田原本町の年中行事 ③日本地名大辞典29奈良県 ④日本歴史地名体系30奈良県の地名⑤史遊会資料

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