建物調査

高取城隅櫓

村田東平家

市川家

堀内家

西竹田 地蔵屋形

八倉家

松村家

広川家

    本の歴史的町並み・家並の保存と活用をめざすまちづくりの会

たすき会

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田原本の主要建物

田原本・主な建物

 

 

田原本町 江戸時代から明治時代の調査

 田原本町には旧伏見城から移築されたと伝承のある、安土桃山時代の浄照寺・山門と長顕寺山門を最古とする江戸時代から明治時代の建物が約80棟程あると推定され、昭和59年発刊の田原本町史に社寺建築 棟、民家建築16棟が記載されていますが、この内、社寺建築 棟、民家建築 棟がこの30年の内にすでに無くなっています。滅失の原因として、老朽化による滅失、老朽化による建替、現代生活に合わせた建替等です。 
 
 奈良県内の市町村では重要伝統的建造物群保存地区指定や、街並家並保存と活用の動きが活発化してきていますが、田原本町ではこの様な活動を「田原本・まちをすきになる会」が行っているだけで、行政もほとんど機能していません。
 この顕著な現れが「国指定・重要美術品 新町 竹村家」、「村田東平家」が崩壊寸前で、かろうじて所有者の努力によって崩壊を杭止めているのが現状です。

  「田原本・まちをすきになる会」では、行政や地域住民に田原本町の「街並家並保存と活用」の動きが活発化する啓蒙活動を行っていきますがその一環として、「田原本町史」に記載されていない「江戸時代からから明治時代の建物」調査を平成21年から、田原本・まちをすきになる会役員で元奈良県教育委員会・文化財保存課で永年建造物の調査をされてきた林 清三郎先生
(田原本町文化財保護審議委員)に行ってきていただいています。

 今回、この「江戸時代からから明治時代の建物」調査と平成20年に文化庁事業で奈良県教育委員会より田原本町教育会へ依頼のあった第一次「近代和風建築総合調査」を林 清三郎先生と中西で行い、田原本町46大字、約1,000棟の内、田原本町・53棟の調査と、旧田原本町の調査171棟を行いこの調査結果を今回発刊することとしました。   
 田原本町の「江戸時代からから明治時代の建物」基礎資料として、活用いただければ幸いです。
 これまで田原本町の街並家並保存と活用の良い先例として、八尾・鏡作座天照御魂神社・社務所(旧神宮寺・聞楽院・庫裏・18C初頭)の建替計画を原宮司の鏡作神社(旧神宮寺・聞楽院)の歴史を残す一念から、解体修理により、約290年ぶり見事に再生され、田原本町の文化財保護の好例を残された。
  これからも、田原本・まちをすきになる会では「田原本町の街並家並保存と活用」をめざして活動していきますので皆様の温かい御支援をお願いします。

                                 平成25年7月29日
                                 田原本・まちをすきになる会

平成元年まで田原本にあった城隅櫓 移築経過

 平成17年秋、葛城市歴史博物館で第六回特別展「大和の城と城下」を観る機会があり、展示品に高取城隅櫓 鯱・鬼瓦 が展示され、「これが近年まで田原本町に在った。」と 解説されていて、うかつにも「田原本町に在った。」ことは全く知らず、葛城市歴史博物館学芸員の方にお話を伺い、早速「鯱・瓦」所蔵の高取町教育委員会へ問い合せたところ、高取町教育委員会事務局文化財担当 富田真二技師様から、平成元(1989)年旧多公民館解体時の奈良新聞の記事を頂き、その後、奈良県教育委員会文化財保存課が解体事前調査の所見資料も御提供頂きました。その折、高取町教育委員会でも、多公民館の昭和27年(1952)明日香村・大字川原天理教青年道場から多公民館への移築、平成元(1989)年旧多公民館写真、解体時の様子、解体部材の墨書の有無の調査依頼があり、当時の関係された方にお話をお伺いした移築経過を報告します。

高取城隅櫓 (旧多公民館) 隅櫓  入母屋二層下層四面庇   
面積 約78㎡(移築時推定) ※1 
建物 桁行 四間  梁間 三間 ※2  
高さ 24尺(復元27尺)※3
明治23年(1890)高取城・解体始まる。
高取城隅櫓は明日香村・大字川原天理教青年道場に移築。(住宅地図①) 
昭和27年(1952) 田原本町大字多公民館に移築。(住宅地図②)
平成元(1989)年 解体 ⇒ 鯱・鬼瓦高取町教育委員会へ。 


※ 1 多公民館間取 36畳敷和室
 東側奥行半間の床・押入
 西側奥行半間の便所 南側奥行半間の廊下
※ 2 丸瓦の本数から推定
   「大和高取城2001城郭
談話会・高取城の建築と残存遺構・松岡利郎著」
※ 3 写真④左側民家と比較と多公民館移築時、柱を三尺切取られた事を参考に推定中嶌實男氏御教授による。
                     奈良県教育委員会文化財保存課・林清三郎氏が解体事前調査。     №2  
 所 見 
 
① 建物の形態、瓦の家紋、移築の経緯から推察して高取城の櫓には間違いないと考えられる
② 部材に記された墨書から、明日香からほぼ忠実に移築されたと考えるが、明治中頃に高取城から明日香川原天理教青年道場に移築された際、相当の改造がなされたと考えられる。
③ 建物の玄関部分は、公民館建設時に増築されたもので、平面的な間取りも高取城当時の構造を推定する事は出来ない。高取城・櫓の形態は屋根及び屋根小屋組部である。
④ 梁、桁材は高取城・櫓当時の部材を使用しているが、その他は、新しい材や古い材を切断などして転用している。
⑤ 屋根瓦は創建当時の軒丸瓦があるが数量的には新しい瓦が多い。鯱や鬼瓦は高取城創建当時のものでなく、江戸末期の可能性が高い。軒丸瓦の形態から17世紀中頃から後期の創建と考えられる。
⑥ 部材に創建当時の年号を記しているかも知れないので、解体の際、確認の必要がある。 
「高取町教育委員会事務局文化財担当 富田真二技師様 提供資料」

 多 公民館 解体前平成元(1989)年6月19日
 ① 解体前の多公民館(南西より) ② 解体前の多公民館(南より)
左手前、昭和27年増築玄関
                     2006.01.25 奈良県文化財保護指導委員磯城郡 担当 中西秀和

村田平家

  350年前の田原本町最
「村田東平家」が消滅寸前」

田原本町の文化レベルを問われる この事態を
  町民の皆様は
どう考えられますか?!

  耐震耐火に鉄筋コンクリート建築よりも優れた
「村田東平家」

 田原本町市町に在る村田東平家は、江戸時代1660年代に町衆の集会場として当時の田原本

陣屋町の中心地に建てられ、当家は村田家・河合家の2軒の所有で、重厚
なつし2階建、西南北

面に庇を廻す本瓦葺の建物で北面する。 

 構造材はよく当初の形態を残しており、西側入母屋根、東側 切妻造の垂木・壁 総塗込めの

外観2層の城郭の櫓型建物で、江戸時代田原本の陣屋・寺院以外の民家が藁葺屋根

(寛永七年
1631)から正徳四年(1714)頃の絵図)で有ったので非常に目立つ建物であった。

 建物内部は西側に八帖・十帖の上段の間、この部屋3方は武者隠しの廊下が廻り、上段の間の

東側は八帖二部屋に玄関、その東側は板間二部屋に玄関、その東側は土間で竈などの賄・台所

である。
棟瓦に、正徳四年(1714)の箆書があるが、構造手法よりみて、17世紀後半頃の建物とも

みられ、一般民家とは異なり、武士の集う公共的な建物で、城郭の建物を思わせるものがある。

いずれにしても、「寺内町」に唯一残る
由緒深い建物で貴重である。

                         
平成245月 文・作図  林 清三郎 田原本町文化財保護審議委員長

 この内部構造と立地場所から、この建物は町衆の集会場で、時には平野藩主を迎える接待の

場所でもあった。 この事は、藩主の信仰の厚かった津島神社
(当時の祇園社)
に参勤交代の 帰・

発時、社参し、休憩接待の為に、神社社務所 (
当時の感神院・庫裏)
上段の間と2方武者隠し

廊下があった事と共通する。

 保 存

 村田東平家は江戸時代1660年代の建築以来、

1662(寛文二年)    近畿地方中心とした   震源地マグニチュード震度 7.6

  1707(宝永四年)    東南海沖(日本史上最大)    〃       〃       8.4

  1854
(嘉永7年・安政1年) 安政大地震         〃       〃       7.25

1899年(明治32年)    紀和地震              〃       〃       7.0

  1936年(昭和11)     河内大和地震          〃       〃       6.4

1944年(昭和19)    昭和の東南海沖地震      〃       〃       7.9

1944(昭和21)    昭和の南海沖地震        〃       〃       8.0

1995(平成7)     阪神・淡路大地震        〃       〃       7.3

 6度のマグにチュード震度 7.0以上の大地震と、2度の3mの離れた隣家全焼火災に遭遇する

 も無事。
一方、鉄筋コンクリート建築・築55年の田原本警察署建物が耐震問題で解体へ

と云う事から、村田東平家の建築物として、耐火耐震に優れた建物であり、田原本町にとっても

 田原本陣屋町のシンボルとして後世に残し、保存と活用すべき貴重
な和風木造建築である。 

 下図 村田東平家 復元図                          林 清三郎 田原本町文化財保護審議委員長 作図

 活 用

1.      田原本観光と文化の拠点・休憩所    

     田原本陣屋町の観光の中心地、下ツ道・中街道沿い、近鉄田原本駅から唐古・鍵遺跡への中継地

     田原本の観光と文化の情報発信基地

2.      地域のコミニティ

     村田東平家は江戸時代に町衆の集会場として造られ、観光客や地域の人達とのコミニティの場所に

     相応しい

3.      田原本の歴史文化財の展示施設           

  建物自体が田原本町の伝統的和風建築の展示施設

     東側土間部分で田原本町の町場、村方の民俗資料の展示  

 村田東平家・東棟瓦 報告 №1    平成22年11月28日 中西秀和

  村田東平家の東側屋根葺替時に東棟瓦を降ろされ保存されているのを調査する機会があり、ここに記す。
 平成16年、村田東平家の東側屋根部分、雨漏りの為、屋根を本瓦葺から金属板葺に替えられた時、棟瓦を降ろされ保存された。 東側屋根は西側と同じく、入母屋根であった。 この東棟瓦により、村田東平家建立年の下限は正徳四年(1714)と考えられる。
東棟瓦は高さ50㎝、幅78㎝で、表は五瓜に唐花紋に雲と波の模様、裏に「正徳四年四月吉日 瓦屋 善四郎」とあり、正徳四年(1714年)に、三輪町の瓦屋 善四郎がこの棟瓦を作っている。

村田東平家・東棟瓦 報告 №2

三輪町・瓦屋 善四郎
三輪町・瓦屋 善四郎は江戸時代田原本・三輪町に三軒の瓦屋があり、その内の一軒で、現在もこの子孫が田原本町本町に在住されている。
現在まで分かっている瓦屋 善四郎の資料は下記に示す。銘文
  年号   ・西暦  所在地・  紀年銘 銘 文
延寶 九年 ・1681  矢部 観音堂 棟鬼瓦 延寶九年六月十六日 紀□十方殿 田原本 善四良 
正徳 四年 ・1714  村田東平家・ 東棟瓦 正徳四年四月吉日 瓦屋 善四郎
寛政 五年 ・1793 津島神社・大燈籠 北・東面 寛政五年癸丑九月 瓦屋 善四郎
文化 六年 ・1809 楽田寺 ・本堂 棟瓦 文化六年巳五月 俵本瓦師 善三郎
文化十三年・1816 津島神社・石燈籠 台座下段 文化十三年丙子十二月吉日 正面「金毘羅大権現」瓦屋 善四郎
天保 五年 ・1834 本誓寺 ・表門 降棟瓦 天保五年 善四郎 善助
嘉永 元年 ・1848 津島神社・社務所 母屋隅棟 嘉永元申十月日 三輪町瓦ヤ善四良内 冨吉才工
嘉永 元年 ・1848 津島神社・社務所 向拝棟瓦 嘉永元年申十月日 三輪町瓦屋善四良内 冨吉才工
嘉永 元年 ・1848 津島神社・社務所 母屋棟瓦 嘉永元申十月吉日 三輪町瓦屋善四良内とめきち才工

          田原本町法貴寺   正昭家 住宅 主屋

 構造形式                林 清三郎 作成  平成25年6月6日 調査

 桁行 22.315m   梁間 9.850m (間口11.5間×奥行5間)
 切妻造 つし2階建 東側落棟 周囲庇付 桟瓦葺 南面

 昭和57年の大和川堤防決壊による大水害を契機として、大規模な改修が行なわれた。 その大和川にかゝる「法貴寺大橋」の東北部に当家は位置する。
代々「庄屋」も務めた旧家で、広大な敷地に、表門・主屋・内蔵・離ざしき・納屋・その他の建物が多く存在し、主屋裏側は広い空地を有し、農作業の場としている。
要所に中庭、坪庭を巧みに配し、落着いた雰囲気をかもし出している民家である。
 当家は、以前より,天保十四年(1843)の板絵図が保存されており、小屋組合掌、建物平面図が描かれている。
 しかし、現在は、「かまや」部分を落棟としているものゝ、居室上部は、つし2階に改められている。 改変された時期については未調査な部分もあるが、屋根葺替期の明治中期頃ともみられるが定かでない、以後部分的な修理は施されているが、昭和46年、平成初年には「どま」に床を張る等の大規模な改装が行われて現在に至っている。しかし、構造材はよく当初材を残しているのは幸いである。
 次に現状平面より、旧状を推察すると、東側落棟部分は、東端を除き全面床を張り、台所、食堂等に変更されて、天井もすべて建材で覆われている。しかし、大戸口東側はもと、「しもみせ」で正面に縦格子が取付いていた。また、「煙返し」の取付痕もあるが、現在差鴨居が入り、中央に化粧窓がついている。 また、5口の「かまど」、井戸の存在も明らかである。 上部の小屋組も当初のまゝ残っており、東側の庇の構造も判明出来る。

        法貴寺・市川正昭家  主屋 南東より          玄関・土間 高い根太天井
西側床上の居室部は、2列喰違い6間取りで、南側は3室、「くちのま」4.5帖「つぎのま」6帖、
「ざしき」8帖、南側に縁を取り、化粧木舞の軒裏で時代の特徴をよく表している。

 「くちのま」は現在、縁を取り込んで6帖間としているが、当初は「式台」の納りで、「うちげんかん」とみられる。 また、「だいどころ」を大きくとるため、喰違いとしている。天井は「だいどころ」とも高い根太天井である。  「つぎのま」竿縁天井、「ざしき」は西端に、床・袋戸棚・書院・を設け竿縁天井で、部屋境に透彫欄間が組込まれているがすべて当初であろう。
 また、この2室は長押が取付けられているのは「主室」ともみられる。北側も3室が並び「だいどころ」7.5帖、「なんど」6帖、「ぶつま」8帖、北側に縁を取るがすべて竿縁天井である 「ぶつま」西側は「佛壇」「神檀」を設けているが、すべて当初からの構えであろう。
 居室4室の竿縁天井上部は、「だいどころ」「くちのま」「入口上部」の高い根太天井が西に延びて広い空間になっているものとみられる。
南縁は化粧木舞の軒裏
当家は、建立から約170年、旧状をよく保ちながら、広い土間部分は生活の利便性を考慮し、改変されて
いるが、小屋組、構造材をよく残している。
 西側居室部は、小屋組合掌は変更され「つし2階」になってはいるが、軸部構造材、雑作部分はよく当初の姿を残し、今に伝えているのは貴重であり、この地方の特徴を現した唯一の民家建築でもある。        
     2013年6月22日      HayashsS

ざしき」8帖 西端に床・袋戸棚・書院 竿縁天井
建築板図面  天保拾四歳卯三月九月吉辰(1843)  
長久安全 市川重市郎 倅専的造立
建築板図面  天保拾四歳卯三月九月吉辰(1843)

篤夫家住宅 主屋   大字八尾
                              平成25717日 調査調査 林 清三郎

 
 桁行14.100m 梁間 5.910m(7間×3間)   切妻造 段違 
 正面、背面、南面庇付  茅(現在鉄板覆)  桟瓦葺(西面)
   .   八尾・堀内篤夫家 主屋 南西より                 堀内家  東北東・寺川堤防より
 鏡作座天照御魂神社東方に通じる(旧中街道・下ッ道)は、現在でも明治期に建設された民家も散見され落着いたたゝずまいを残す町並みである。
 この町並みの中程に「当家」あり、背後の寺川の堤防までの屋敷に多くの付属屋が建っている。
当家は、町内では珍しくなった「大和棟形式」の民家で町並み散策中、すぐに眼に入る建物である。
当主の話によれば、明治後半頃、同町「宮古」より移建されたと伝えるが、構造、手法よりみて創建時期は、幕末~明治初期頃のものとみられる。
移建後の一時期、「しもみせ」部分を「駐在所」に使用したり、正面通りの出格子窓、連子格子、台所、食堂、居室背面の縁側等に後補の改修もみられるが、軸部構造材はよく原形を保っており、当初からのものであろう。
 居室部の平面は、2列4室型で、入口(南側)前端に「しもみせ」を取り、他は新しい台所兼食堂に変更されているが、もとは、広い土間でで、「カマド」も据っていたらしい。
 25㎝角の「花神柱」「煙返し」も柱に取付いており、南端半間の「通り土間」も異例である。
入口(北側)は前列前端に「みせのま」4.5帖、「だいどころ」4.5帖、奥列前端は「みせおく」3帖、
「ざしき」6帖となる。「ざしき」6帖北側半間には、床、違棚、佛壇、「みせおく」北側の物入れ共、落棟としているのは時代の特徴ともみられる。
 通り土間及び4室の天井は、高い杉丸太の根太天井とし、上部に土を置き「つし」として使用しており、屋根は合掌造りとしている。
屋根材の「茅」の上部に現在は鉄板を覆つている。 側桁、入側桁、梁、根太、垂木等は殆んど杉丸太材であり、居室4室の天井板兼、つし部分の床板は杉板であるが、通り土間上部のみ、細丸竹の簀子天井で精細である。又、居室4室は、成の高い差鴨居で固めて力強く保存も良好である。
現今、 この種の建物が姿を消していくのをみると、愛惜の念にたえぬものがあるが、当家は、先祖の遺産として引継ぎ、保存されているのは喜ばしい限りである。
 これひとえに、所有者の歴史に対する想い、また、伝統様式を守り続け、文化を継承していこうとする姿にほかならない。               2013・7     Hayashs
            入口、通り土間上部                       みせのま~だいどころ
         おくのま 仏壇・違棚・床の間                      屋根茅葺 合掌組

西竹田 西田・ 地屋形
江戸末期・19C中期

 西竹田・地蔵屋形は、西竹田の集落の東入口に在り、屋形は八王子さんの森木立の中にあり、基壇上に建つ、1.1m角、流れ造、本瓦葺の簡素な地蔵屋形であるが、柱上部の組物、両妻の蟇股、向拝木鼻等見るべきものがある。後補の補修もあるが、特に屋根は重いのは旧は、檜皮葺か杮葺であったのだろう。 庶民信仰の根深い地蔵尊を地区の人々が、古い屋形を保存して、崇拝しているのに感銘すると共に、民俗学的にも、貴重である。 なお、この地蔵屋形は、改修時の昭和50年頃までは、村の鎮守・八阪神社の北東に在ったものを、現在に移された。
 建造物の周辺の状況 民家から やゝ離れた森の中にある。 近くに八王子さんの祠もあるが、この小社と共に、地蔵屋形も大事にして、後世に継承していたゞく事を望む 
                      
文 田原本町文化財保護審議委員会長 林 清三郎
西竹田・地蔵屋形       二重垂木、両妻の蟇股、向拝木鼻等組物  

南町・ 借家 建物は、江戸時代・天保年間か? 
平成22105

            母屋 表面  南西より                   母屋 裏面  東より
            母屋 表面  西より                  母屋 表面 連子窓 (改造) 西より
           下店・通り庭・店の間                 母屋  2列4部屋型       店の間
田原本陣屋町 街並・家並調査

平成22年10月7日(木)解体予定の南町の民家2棟
              北東部屋  
南西より
1階 店の間(改造)                      1階 奥の間 力天井
1階 左 店の間(改造)                 右 奥の間 力天井   
1階 力天井                    二階 北壁
       二階 北西 連子窓  垂木  階段出入口           二階 西 連子窓
     二階 南東 左 階下かまど囲い壁 梁支桁柱             二階 北壁
              1階 奥の間 力天井                1階 奥の間 力天井
         二階 南東 階下かまど囲い壁                     梁支桁柱

  郭内・     841番地
母家は天保年間の建物か
 

松村家  左・大師堂  右・母家 松村家・離座敷

 ← 郭内・大師堂  

 大師堂  平成25年2月解体消滅

   本尊 ・ 大師像は浄照寺にあり。

  
連続立面図作成    調査 奈良女子大増井研究室 三宅
             平成24年度地域資源調査 町家等地域資源発掘・発信事業

  田原本町 江戸時代から明治時代の建物調査  平成24年度地域資源調査 町家等地域資源発掘・発信事業
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